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心理テストに、20クエスチョンというのがある。
「私は・・・です」とういのが20書いてあり、その「・・・」の部分に、
何でもいいからできるだけ早く書いてもらうやり方である。
「私は○野○男です」と、名前を書いてもいいし、「私は男です」でもいい。
何でもパッパッと20書く。その後で、消してもいいと思うものから消していく。
そうやって、消して残った部分は、その人にとって大事な意味を含んでいる場合が多い。
深くは分からなくても、書いた本人が、後から調べて面白いこともある。
何でこんなことを、書いたのだろうとか、この項目を残したのはなぜだろう、とか。
日本人の場合は、わりに職業が出てくる。
日本人は、どこかに所属すると、それで自分の説明がつく気がするのだ。
ところが、女性の場合、特に仕事をしていない人は、その問いかけが自分に厳しくなる。
「家庭の主婦」では、あまり所属している感じはしないし、「○○の家内です」では、パッとしないし。
私とは何かの問いかけは、根源的に女性の方がよくしているのではないだろうか。

(こころの天気図より)


ウソをつけないほうがもっと悪い。
ウソをつきとおすことに伴う精神的エネルギーの大変さを感じたことのない人はないだろう。
だからか、私たちはウソをつきとおすことは、たいていの場合できない。
思い余って正直に告白したり、それとなくほのめかすこともある。
ウソをつかれると、その人にウソつきのレッテルを貼るが、ということはその瞬間、人はそれをウソと知っているということで、それはウソでもなんでもない。そこにはウソは存在しないということではないだろうか。
ウソをつける精神力を養おうといったらウソになるであろうか。

(こころの日曜日より)
「人から嫌われたくない。人が自分のことをどう思っているのか気になる。
後ろ指だけは差されたくない」と思う人は実に多い。
そんな人には「一度変人になってしまえば、後でとやかくいわれることは少ない」
ことをお勧めしている。
「他人から嫌われたくない」という心理の奥には、自分への愛着が秘められている。
人から、普通に見られることを求めながら、普通以上に見られることを期待している。
この変人の勧めは、実は「変人」を自らの内に受容していく過程こそ重要であり、
その結果「後ろ指を差されたくない」から「後ろ指を差されてもいい」となり、
さらには「後ろ指を差されたい」にまで高められます。
あとは「立派な後ろ指の差され方」についての検討がなされれば、怖いものなしです。

(こころの日曜日より)
流れに棹さすとは、「傾向に乗って、ある事柄の勢いを増すような行為をすること」をいう。
人生は複雑で不可解なものだ。
そのなかで自分の個性を尊重して生きるとなると、色々な人がいる。
流れに棹さす人、逆棹の愛好者、ついつい逆をやってしまう人、それぞれに自分の個性を見極め、それに伴う苦しみと楽しみの味がわかってくると、ともかく、他人をうらやましがることはなくなるようである。

(ココロの止まり木より)


人間は何か普通と異なることをするときは、練習をしなくてはならない。
別れの練習とは、趙炳華(チョウビョンファ)の「分かれる練習をしながら」
という詩にあった言葉である。

分かれる練習をしながら、生きよう
立ち去る練習をしながら、生きよう
互いに時間切れになるだろうから
しかし、それが人生
この世に来て
知らなくてはならないのは
立ち去ることなんだ

こんな大切な出番のために練習しないのは、まったく手抜かりである。

(ココロの止まり木より)

「感動と疑問」どちらも「人を動かす」ものである。何かの話に感動して、よしやろうと思う。あるいは、何かに疑問をもって、追求していく。
感動によって動かされるときでも、新たな創造に向うことはあるが、ともすると受け身になったり、方向性の決まったものになりがちだ。
これに対して、疑問の方は、それを抱く人の主体にかかわってくるので、どの方向に向うか分からず、創造的な要素が強くなってくる。
親や教師などが、子供が感動するのは好きだが、疑問をもつのを嫌がることが多いのは、感動は、大人の思い通りなので安心なのである。ところが疑問となると、どこに話が進んでいくか分からない。
そこで、なるべく疑問を封じて感動させようとするので、子供の創造性の芽が摘み取られるのではなかろうか。
感動はもちろん大切なことであるが、疑問に対しても開かれた態度で大人が子供に接し、子供から出される疑問を育てようとすると、創造性が高まると思う。

(ココロの止まり木より)