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「ファンタジー」というと現実ばなれしている作り話と思われるが、
そんなに甘いものではない。
例えば最近、非虐待児が増えているが、そんな子に「あなたの親はどんな親?」
と聞いても、上手く答えられない。
中には「よい親です」という子さえいる。
そんな時に「箱庭」でもつくってみませんか?と誘ってみると
交通事故、動物の争いや戦争を表現したりする。
それは、いずれもすざましいもので、
その子がどんなに苦しい体験をしているかと思うと胸が痛くなる。
毎週、
箱庭を置いているうちに、痛ましいシーンはだんだん平和な世界が出現してくる。
このような例に接すると、「ファンタジー」の意義が了解される。
それは「真実を伝える」最良の方法なのである。
(ココロの止まり木より)


不登校全般に通用する「よい方法」などない。
少々嫌なことがあっただけでガマンできなくて学校へ行かない子もいれば、
こころの問題を抱えて行けない子どももいる。
大切なことは、立ち直る可能性のある子に、
よけいなことをして、傷を深くしないことだ。
このことを考える時、村上晴樹の『海辺のカフカ』(新潮社)は参考になるだろう。
(ココロの止まり木より)


日本に起こる問題は少し遅れて韓国でも必ず起こるという。
若い女性があまり結婚しない傾向も、日本ほどではないが強くなっているらしい。
韓国の若者たちが、日本映画を観て、「お元気ですか」と言うのがはやったり、
「愛しています」とあいさつがわりに言ったりする。
ところで日本でも韓国でも「愛している」という意味が不明確になっているのが問題ではないか。
かっては「愛する」ことは結婚に結びついていた。
しかし、現在の若者にとっては、それはあいまいになり、
結婚にそれほどの価値を見いだせなくなっているのではないだろうか。
(こころの止まり木より)


高校野球の人気は絶大なものがある。
しかし、解説や評論などが「精神力」というようなことを言いすぎる。
純真な球児というイメージを売り物にしているのだろうが、
「いいプレーだな」と思っている時に、
アナウンサーや解説者が精神の大安売りをやってくれるとゲンナリする。
また「連帯責任」という陰湿な方法もある。
ある生徒が問題を起こしたことで、
他の生徒が野球に出られないことが、どうして教育的なのか。
野球連盟の役員たちが、自分達の責任は棚上げにして
生徒たちのみに押しつける「精神力」には感服させられるが、
それは精神の輝きとは別物である。
心、魂、精神などは、直接的に知ることはできないにしても、
その働きが、われわれが目で見、耳で聴き、手で触れるもののなかに、
ほとんど直接といっていいほどの形をとって表れてくるのであって、
それについてあまりガヤガヤいうのは好きではないのである。
(こころの処方箋より)



純粋にひたすら傾倒する者とされる者との間、例えば師弟、夫婦、先輩と後輩などで裏切りは、同一化の破壊的な解消の意味をもっていることがある。分離された二人の内どちらかが破滅していくこともあるし、どちらか、あるいは、どちらもが、その傷を見つめて生き抜いていくことによって大成していくこともある。
(こころの処方箋より)


先生は生徒に対して「権威者」であるべきと思われている。
ところで、生徒の誰かが意表をつく質問をして、教師が困ってしまうときがある。
そんな時に、「馬鹿な質問をするな」と頭ごなしに無視しようてすると、
生徒は黙ってしまうかもしれない。
このとき、教師は権力によって自分の権威を守ったつもりでいるのだが、
生徒からすれば、教師の権威が失墜したことは明確である。
このようなとき、まず教師の権力を棄てることが大切だ。
「君の質問は面白いが、今すぐには答えられない。来週までに考えてくる」といって、次週にそれなりの答えをすると、
権力を行使することなく、自分の権威を守ったことになる。
権力を行使して、その場をごまかしてしまうよりは、自分なりに調べたりする方が労力が必要である。
これは、親と子の場合にも、上司と部下の場合にも当てはまる。
このようにして得た内的権威は自分の身についたものとして、他人に奪われることがないのである。
(こころの処方箋より)