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文化ボランティアとして「読み聞かせ」の運動が盛んになっている。
いろいろな本を読み聞かせることで、子どもたちは読書のおもしろさを知り、自分で本を読み始める。その読み聞かせの内容として「おはなし」が復活してきた。
その秘密は、「おはなし」の持つ「つなぐ力」が再評価されてきたからだ。
「おはなし」は話し手と聞き手の心をつなぐ。それに、「おはなし」は子どもたちの心の中で、バラバラだったものがつながったり、心と体がつながったりする体験をさせる。
われわれは「つなぐ」ことを忘れて、知識の切り売りで、頭でっかちのすぐ「切れる」子どもをつくってきたのではないか。

(ココロの止まり木より)

世界のあちこちでテロが多発している。これは21世紀を考えて行く上で、極めて重要だ。人間は、自分を超えた存在に対する恐れを抱いて生きてきた。
ところが、欧米の近代においては、理性や科学の力で、実に多くのことを可能にしてきた。しかし、人間のノイローゼは薬でも治せない。
フロイトは、自分の中心が自我であり、自我は無意識という簡単に支配できない存在に脅かされているといった。そのため、ノイローゼを克服するには自我と無意識の対話が必要と主張した。
21世紀になって人間は地球全体のなかに正しい政府を確立すれば、地球全体を支配し問題は起こらないと考え始めたのではないだろうか。
そう思うかぎり、自我に対する無意識のように、それに反する存在はノイローゼ(つまりテロ)という反発を繰り返すのではないかと思われる。

(ココロの止まり木より)


鳥取の「わらべ館」では、昔の小学校の教室と同じしつらえの部屋があって、秋の夕日に照る山紅葉、「紅葉」の作曲者、岡野貞一の数々の曲を聞くことができる。
ここには、孫の手を引いたり引かれたり、高齢者の方がよくいらっしゃるそうだ。
じっと耳を傾けている高齢者の姿が印象的である。
一言も話せなかった人が、小学唱歌を聴いて、言葉をだされたこともあるという。
また、歌を通じて、孫と祖父母の心の交流ができることはすばらしい。

(ココロの止まり木より)



科学技術の急激な発展によって、人間は何でも自分の欲しいものを手に入れるようになった。
科学的な考え方のもとになる「事実」を知ることが最も大切で、事実か事実でないか、ということに価値判断の基準を置いている。
しかし、人間が「生きている」と実感するとき、「命あるもの」として自分のことを感じるとき、その実感を深め、他人と共有するためには「物語」が必要なのではないだろうか。といって、まったくの虚構の物語は、人の心を打たない。
事実に反するのではなく、自分の事実を伝える「物語」こそ意味がある。
レベッカ・ブラウン著、柴田元幸訳『家庭の医学』(朝日新聞社)はそのことを深く感じさせるすばらしい本である。この本の特徴は、まず「貧血」「転移」などの医学用語が挙げられ、その定義がコラムに書かれている。そして、そのような症状によって患者とその家族たちがどのような「物語」を生きてゆくのかが、しっかりと語られる。
「物語というと絵空事のように思う人があるが、そんなものではない。本書の文には、なんらの虚構はない。それでいて、それは人間の「いのち」の尊さを読む人に伝える力をもっている。いのちを「みとる」ことの意義を深く感じさせる作品である。

(ココロの止まり木より)


仏教に「安心立命(あんじんりゅうみょう)」ていう言葉がある。
しっかりと大地に根ざして生きていると感じられ、傍らにいるだけで安心感を与える人がいる。最近、そんな人がずいぶん少なくなった。
一般に「幸福」というと、お金があって、仕事がバリバリできて、自分の好きなことができる。というイメージがあるのではないか。
そんな人は、すべてに自信にあふれているが、安心の方はサッパリなのである。
傍らにいると、なんとなくソワソワしたり、時にはイライラしてくる。
最後には、「立派ですな。しかし、あなたの人生それでおもろいの」などといいたくなる。
現在、日本はモノにあふれている。モノやお金をもっていないのは不幸と感じられるのも無理はない。実際「カネさえあれば何でも手に入る」という人もいる。そんなことはない、モノやカネにとらわれず安心立命することが大切という人もいる。現在の日本で物やお金を持たずに安心できるだろうか。
いうは易く行なうは難しいこと。「幸福と安心」両方を手に入れることである。それにはどうしたらよいか。どちらか一方の菩薩のために努力しているときも、それがすべてではないことを忘れないのがよいのではないか。21世紀は何かにつけて両面作戦の時代である。

(ココロの止まり木より)


日本人は昔から、道徳についてタテマエとホンネという二重構造を持っている。
タテマエにおいては、理想に近い厳しいこというが、だれもが、それは「タテマエ」であって、現実はそのとおりいかぬことを知っている。
そして、実際の行動においてはホンネに基づいて行動し、それがタテマエとずれていても非難されることがない。
日本人である限り、「だいたいこのあたり」という見当を皆がもっていて、問題の生じない程度に「タテマエ」を破る、という生き方をしてきた。
ここで、談合や大企業の不祥事にみるように、大幅にタテマエを破る者が現れるとどうだろうか。
大きいスケールで日本的慣習を悪用した”悪”を摘発することはよいことだ。
しかし、ここで、日本的なものはもはや通じないとして、タテマエとホンネの分離をやめて、新しい現実的な規律を設定するのでなく、タテマエ尊重の大合唱になっても根本的な解決にはならないだろう。道徳に関するホンネの話し合いが必要なときである。

(ココロの止まり木より)