第四十九話「縁を考える。お話 その三」

 報道によると、この冬は「暖冬」で、年明けから徐々に寒くなると言う、気象庁の「長期予報」でした。しかし予想に反し、とても寒い年末になりました。その寒さの中、私は職人さんと一緒に、青森県むつ市の海浜公園の石工事をやってきました。
 寒風吹きすさぶ中での仕事は、これまで何度も経験してきましたが、下北半島の寒さは一味違います。一緒に行った職人さん達と楽しく仕事を進めようと思うのですが、足の裏から徐々に、コンクリートで固められるように伝わってくる冷たさで、体の動きが鈍くなり、口元からは、場を和ませようとする言葉さえ出て来なくなります。
「まあ、この寒さを経験すれば、今年の大崎八幡宮の松焚祭はだか参りは、どんなに寒くても大丈夫?」などとも思うのですが、反面、年齢と共に寒さを克服出来ない体になっているような、そんな気もしています。
 昨年の十一月半ば、仕事中に痛めた左手の中指が「へ」の字になったまま、まっすぐに伸びなくなりました。「まぁ、いつか、治るだろう」と高を括っていたのですが、今も中指は曲がったままです。これも「年齢のせいかな?」とも思うのです。
 私も自分自身の『終活』の準備を始めなくてはならない、そういう時期が来たのかもしれません。昨年末に亡くなった小沢昭一さんが、四十年も続いたご自身のラジオ番組『小沢昭一の小沢昭一的こころ』の中で『千の風』になるのは嫌だ、「ちっちゃい石ころ一つでもいいから、私の骨のある場所の目印、あってほしいな。そこから私ね、この世の行く末をじっと見てるんだ。」と語っていたのを思い出します。十五年も前立腺がんと共生しながら、小沢さんはいろんな事を、考えていたのでしょうね。
 先々月号に少し書かせて頂いた、洋菓子屋さんお墓は、十二月初旬に立派に完成しました。最高級の素材の石で、凝った加工もさせて頂きましたので、仕上がりは想像通りの、素晴らしいモノになりました。
 その仕事に取り掛かってから二日目のお昼頃、私の事務所から電話が掛かってきました。「来週、○日の予定で、Sさんのお母さんと、お姉さんの納骨の依頼が有りました。」との事です。お母さんとお姉さんのお二人は、あの津波の日から一年九ヶ月も行方不明になっていたのですが、二、三日前に見つかったと言うのです。
「それは良かった。こちらからも、Sさんの家に電話してみるから。」と言うと「今お寺で、Sさんと住職が、納骨の日程の打ち合わせをして、すぐに携帯で会社の方に電話をしてきた様ですから、もしかすると、Sさんご本人も、お墓の近くに居られるかもしれません」との返事でした。作業中の現場から、少し離れた所に有るお墓まで行ってみると、ちょうどSさんが自家用車で、お墓の前まで来られたところでした。
「米田さん、こちらでお仕事だったのですか?」とSさんご夫婦。「偶然ですが、二日前から、お隣のお寺で仕事をしていたんですよ」と私。「これも何かの縁(えにし)なのですかね」とSさんは言うのです。
 Sさんのお墓は、『りらく一月号』に写真つきで紹介させて頂きましたが、一昨年末にこの場所で偶然出会って、銀行で『りらく』の記事を読んで頂いた、と言う『縁』から始まった仕事でした。
「一年九ヶ月も分からなかった行方が、何故いま、判ったのですか?」と、お訊ねすると、お姉さんが生前受けていた『がん検診』の検体からDNA型の判定が出来、身元が分かったという事なのです。でも、それよりも「お墓を綺麗に直して、何時でも帰って来てもらえる様にしていたお蔭でしょう。」とSさんが言われた時、私は涙が出そうになりました。
「お寺のご住職も、とても喜んで居ましたよ。米田さんが立派な仕事をしてくれたから、他の檀家さんも、自分のお墓を大切にするようになった。このお墓は、いい見本に為っています。と、住職が話していましたよ」との事です。ありがたいお話しです。それから数日後、朝日新聞の紙面に「がん検診の検体から身元判明 震災の遺体」という、二十五行ほどの記事が掲載されました。
 年も明け、微速では有りますが、被災地も震災から立ち直りつつ有るようです。でも、仕事で沿岸部を走っていると、まだまだ手も付けられていない墓地が見られます。何かの記事で「復興の中心はお祭り!」と言ったような話を聞きました。地域が元気にならない限り、復興はあり得ない。地域の元気の証が『祭り』だと言う事らしいです。その「お祭り」と同じくらい大切なのが「お墓」ではないのかと、私は考えます。
 お墓を建てる事は、亡くなった人の霊を「祀る(まつる)」事なのですから。
2013.01.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]