このところテレビや新聞で『孤独死』と言う言葉をよく聞きます。都会の雑踏の中で一人、誰にも看取られず死に逝く人の事を言い表した言葉らしく、多くの都会暮らしの中高年が「自分もそう為るのではないのかと恐れている。」との事です。
しかし良く考えてみると、これから来るだろうその時、沢山の家族・友人に囲まれていようとも『死』という事実を受け入れるのは、結局はあなた(わたし)一人なのです。
この世に生を受けて死に至るまでの、長い(短い?)人生の最後の『死と言う最終駅』に到着しようとするその時、貴方(私)の周りに身近な人たちが何人いてくれようとも、『死という門』を潜り抜けるのは貴方(私)自身、一人きりなのです。
突然のように死が訪れる場合もあれば、ゆっくりと迎え入れなければならないときも有ります。「誰かにそばに居てほしい。」とは、どの人も思う事かもしれませんが、その時の状況で、誰も居てくれない時も在るかもしれません。
二十年前、私たち家族と同時期に引っ越してこられた、ご近所の旦那さんが、先月末に亡くなられました。子供たちが同い年でしたので、結構仲良くしていたのですが、どうした訳か亡くなったことは、後日人伝に、私たち夫婦の耳に聞こえてきました。
後から奥さん本人から聞いた話では、朝方、ご主人が自宅のベッドで倒れているのを、彼女が発見したとの事。直に救急車で搬送されたそうです。何度も危篤状態になりながらも、その都度持ち直しましたが、意識の無いまま二十日以上の入院の後、亡くなられたそうです。
その時の家族の精神状態では、親族だけで葬儀をするのが、いっぱい一杯だったとの事でした。
私ども夫婦が「どうしたかな?」と思っていると、人の思いとは通じる物なのでしょうか、突然我が家の玄関に奥さんが現れて、「仏壇とお墓の手配をしてほしいの。」と一言。
「ああ、いいよ。目一杯、良いものをさせてもらうよ。」と、私も即座に答えました。
昔から、親子仲の良い家族です。残された母親と兄妹三人で、本当に真剣に仏壇を選んでいました。お墓を建立したら、きっと毎日の様に、家族でお墓参りに行く事でしょう。お父さんは一人で先に逝ってしまいましたが、彼ら家族は、心の中でいつまでも一緒に暮らしているのではないでしょうか。
死ぬ瞬間が問題ではなく、死した後の周りの人たちの行動が、その人の生前の『生き様』に対応するのではないかと、私は考えます。
死ぬことは、誰も皆怖いのです。その『死』の瞬間まで、誰も知ることの出来ない、大きな恐怖に対抗する為に、世界中には色々な宗教が存在します。墓はその大切な象徴だと、私は思います。(石で出来たお墓に限らず、世界中には色々の形のお墓が存在します。寺や神社もその一つの形かも知れません)
先月、雪の日をかいくぐる様にして、岩手県一関市に墓を建ててきました。そのお寺のご住職が、こんな話を私にしてくれました。
東京で開かれた同窓会で、ご住職の友人に「俺が死んでも葬儀や墓は必要ない。骨はどこかの海にでも撒いてくれれば、それで充分。」と言われたそうです。ご住職はその言葉に愕然とし、「我々僧職者がちゃんとしていないから、こんな言葉が出るのか!」
「千の風・・」の唄が流行ったせいばかりではなく、葬儀社の言われるままに葬送の儀式を行う事にも、皆が疑問を持っているのだとも考え、せめて残された家族の為にも、どの様な形でも良いので墓を残してほしいと、桜の樹の下に遺骨を埋葬する『さくら葬』を思いつかれたそうです。
「お骨を撒いてしまうのは、自分がこの世に存在した事実をも、空間に遺失させる事、永遠に無くしてしまう事でしかありません。」とご住職は話しておられました。
確かに、その事のほうが、本当の『孤独死』なのではないでしょうか。
家族が社会の最小単位であります。その家族の崩壊が、日本の社会を脆弱にしています。
『孤独死』そのものは、まさにそうした現代の日本社会が生み出した物だと、私は考えます。