第十一話「戒名を思う時代」

 秋です。今年は何年か振りで、宮城県に台風が、直撃しました。
 私の幼い頃の記憶では、嵐が近付いて来ると、父や兄達がせわしなく働き出し、家の周りを片付けたり、飛んで行っては困るものを固定したりした後、頑丈に板で留められた雨戸の、薄暗い室内で、息を潜めるようにして、徐々に強くなって行く、大風を感じていたものです。
 戸外から聞えて来る風の音に、吹き荒れる風雨を想像しながら、テレビで台風の進路状況を見ていました。とは言っても、当時は今ほど的確に、素早く被害の現状を報道していたわけではありませんので、なんとなく、もう直ぐ来るのかな、という感じだったと思います。
 思えば台風は、夏から秋に現れる、みんなの嫌われ者でありながら、大自然が巻き起こす大切な年中行事の一つなのです。
 人の一生の中では、定期的に行われる行事が幾つか有ります。ある年齢に達したときに行われる『通過儀礼』と言われる物です。成人式がその代表ですが、入学・卒業も大きな通過儀礼です。また、結婚・出産と言うものも有りますが、それらのほとんどが前もって計画され、予定された日に執り行われるものばかりです。
 しかし、台風のように予期せずして起こる、儀式もあり、それが通過儀礼の中では『死』と呼ばれる物です。祖父母・両親等親族の死や、仲の良かった友人・知人の場合も有るでしょう。そして、最後に来るのが『自分自身の死』です。
 結婚式の様に計画され、予定通り執り行われる儀式ならば心の準備も出来ますが、『死』はいつか来る事と解っていながら、ほとんど何も準備される事のなく、また、何があっても拒むことのできない儀式なのです。
 また、家族の誰かが不治の病で入院しても、「さあ、これから葬式の準備だ。」等と言う事は、まず有り得ません。
『死』は何の予告も無いままに迎える事になる儀礼なのです。
 でも、そんな時に際しても、ちゃんと準備している方もいますが・・・!
 これは先日の『お話の会』(九月十二日、りらく主催)に来て頂いた、ある御婦人からお聞かせ頂いたお話です。
 その婦人の父親は、なにかにつけて、お寺のお世話を良くしていたとの事で、その善行に対して御住職から『生前戒名』を頂いていたそうです。
「戒名が有るのだから、いざ私の葬式の時は、葬儀社に渡す葬儀料と、御住職に読経のお礼を渡すだけ、お墓もあるし・・・うん家族も安心だ。」とお父さんは、考えていたようです。
 ところが、それから何年かして、お父様が亡くなられ時には、戒名を付けて頂いた御住職も、すでにお亡くなりになっていたのです。
 その為、次の住職が、御婦人の父親の葬儀を取り仕切ったようです。
 その折「亡くなった父は、先代の御住職からこの様に戒名を頂いております。」と住職に言ったところ、「その戒名はもう古い、新しい戒名を付けましょう。」と言って、新たに戒名を付け直した上、それに対する『お気持ち』を要求された、との事でした。
 これに驚いた御婦人やご家族は「なぜ、以前頂いた戒名ではいけないのですか?」と訊いたところ「その戒名は、古い。」と言うだけで、きちんとした説明が無いままに、新しい戒名を付ける羽目になったようです。
 その上、『お気持ち』を渡すと、中身の確認もせず、封筒の厚みを触っただけで「これは、お気持ちではありません。」と突き返されたそうです。
 泣く泣く追加のお金を入れて、住職にお渡ししたようですが、この件で、お寺や宗教に多大な不信感を持たれた、と話されていました。
 後日、このお寺の在る地域の石材店に「こんな話が有るけど、どう思う?」と尋ねた処、「結構有ると思うよ。」との事でした。
 もし、葬儀に関して不明な事が有れば、消費生活センターや国民生活センター、お寺に関しては宗教法人を管轄している都道府県の学事課・文部科学省の文化庁、またはそのお寺が加盟している包括宗教法人などに相談してみてください。
 このお話は少し前の事ですし、すべての寺がこうだとは私は思いません。
現に社会活動や、布教活動を熱心に行っているお寺も、数多く知っておりますし、今はお寺の考え方、やり方も少しずつ変化して来ているようです。
 みなさんも、葬儀をして頂く時だけのお寺ではなく、日頃から、いろんな意味でお寺とか関わって頂きたいと、私は考えています。
2009.10.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]