ご縁あって飯豊町黒沢坪沼熊野山神社の梅津弥兵衛の作の獅子頭をしばらくお借りすることになった。
熊野山神社拝殿内には長井市時庭出身の南画家菅原白龍直筆の親子熊の絵図が板壁に描かれている。
白龍は修験の家に生まれたので坪沼とは近く、法印を務めた縁もあっただろう。
絵師で宝印様であれば大胆に拝殿の壁に墨絵を残したと考えてもおかしく無い。この絵図については
資料や口伝はないが、類を見ない絵図なので貴重な文化遺産ではないだろうか?
熊野山神社の例祭(7月15日)では現在も獅子舞を行なっているが、人手不足で獅子舞の継続も難しく
なっている様子である。どの地域も人口減は切実な社会問題だ。
神社所蔵の最古の獅子頭は梅津弥兵衛の作風(推測)で記名には「熊野山神社 文久元年(1861)六月
新調 昭和五十六年塗り直し」とだけ金字で記されている。
この獅子頭の特徴は頭部の高さが異常に高い点だ。計測すると41cmもある。幅は34cm、奥行き39cm
と高さの寸方だけが吐出している。通常總宮神社型の獅子頭は高さは35cm前後で6cm高いとタテガミの
膨らみも加え獅子頭はL字型になり、目線は真正面を見据えている。鼻や口は普通で目から上に伸ばした様
な造形はどう言った意図で制作されたか?不思議でならない。以前、坪沼の竹田儀一氏所蔵の渡部 亨氏作の
獅子頭を拝見した際に、その特徴を模した作風だった。
総宮神社所蔵の獅子頭、梅津弥兵衛の作、明治18年(1885)は神社最古の獅子頭「寛文11年改」
に倣って同様のプロポーションで制作されている。梅津弥兵衛は昌利と養子入りした吉蔵が獅子頭を制
作しているので坪沼の獅子は果たしてどちらかなのか資料がないので疑問となる。おそらく年代から
昌利と考えるのが妥当なところだろう。梅津家に取材した際のご子孫のお話では昌利は病弱のため若く
して没し、昌利生前に吉蔵が養子に迎えられ家業を継いだと聞いている。
その他、梅津弥兵衛昌利と吉藏は下黒沢高伝寺境内稲荷神社、長井市伊佐沢神社、森観音、河井の若宮
八幡、など市内外の神社に獅子頭を数多く優れた獅子頭を残している。
現在、弥兵衛の作の獅子頭は破損の為、引退している。以前、弥兵衛の獅子を修理した事もあり、割れ
を繋ぐ「アリ継ぎ」を駆使しての修理跡を目撃している。差物大工だったという腕前を活かし精巧な修理
だったが、破損は再発していた。獅子頭の木地も硬く重い栃材を仕様していた様で、それが原因の可能性
もあるだろう。また坪沼の獅子も頭部の自重と衝撃で破損を誘引したとも考えられる。
弥兵衛獅子の後に制作された獅子は白鷹町浅立の小形三郎氏の獅子である。平成10年(1998)7月15日
に新調され、弥兵衛の作に倣い頭を高く制作されている。こちらも破損し大修理をさせて頂いている。
塗面を剥がすとポプラ材と思われるものを使用していた為か、各所無数に大小の割れが発生していた。
確か鼻から目、歯から内部、後頭部木口面から耳まで破断し内部もFRPにて補強し再生した。ポプラ材
は短期間で成長し大いに水気を含み火災除けに植栽される樹木で、年輪はほとんど見られない。太くな
るが獅子頭には不適材である。当時小形氏は浅立の諏訪神社に奉納する大獅子一対を制作していたので
その余材を使用したのとも考えられる。
令和4年(2024)白鷹町在住の松村智和氏が自作の獅子頭を制作され、神社三頭目の獅子頭をなんと
2頭同時に奉納された。松村氏は坪沼出身という事もあり獅子舞にも参加され、そのご縁での熱い故郷の
想いを込めての奉納となった。その他、松村氏はタテガミの植毛の奉納など坪沼の獅子舞に貢献されて
いる。
それらの坪沼の熊野山神社の獅子頭の歴史に、また新しい獅子頭が加わろうとしている。
まだ詳細は公表できないが、その準備だけはしておこうと制作が始まった。獅子頭の工期は少なくても
二年、養生して更に一年、三年先の完成となり道具類も老朽化して整備の必要があるだろう。



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