立体彫刻は凸凹の複雑な連続で構成されていて塊を削り出すか、何か部材を積み重ね塊にするか
によるものだ。
西置賜地方の獅子彫は伝統的な「一木造り」で主に一つの材の塊から彫り出し獅子頭を削り出す。
その手段は様々あり手法は古今からほとんど代わり無い。「寄木造り」の手法も古くから行われ、
太神楽などの軽い獅子頭の制作に用いられる技法である。昔と近代の獅子彫における変化は、チェ
ーンソーの活用だろう。動力はエンジンや電動、バッテリーなど状況によって選択でき加工の飛躍
的な効率が得られる。
白鷹町畔藤の熊野神社の獅子舞は、昔から何故か畔藤と小山沢、広野地区が交代で獅子舞が行われ
という風習である。その熊野神社の獅子頭の新調を依頼され、最古とされる獅子頭をお借りしている。
(白鷹町畔藤熊野神社の獅子頭に大発見 ://samidare.jp/shishi9/note?p=log&lid=528912)
発見した獅子頭の記名は 宮邑 高橋小兵衛の作 成田邑 横山直太郎 塗とあるが、年号が見当たらず
安永年間前後と推測される。総宮神社の獅子頭で「元治元年(1864)」の記名のある獅子頭の作風が高
橋小兵衛と思われる。塗り替えの為、小兵衛の名前と新調した年代が消されてしまったのだろう。補修さ
れた跡を確認している。総宮型の小兵衛の作と元治元年の獅子頭と畔藤熊野の小兵衛の獅子頭のデザイン
を見比べてみると随分かけ離れていて面白い。しかし、畔藤熊野の獅子制作で細部に小兵衛の作風が見え
隠れする。頭部は左右非対称で総宮型の特徴である左目の突出(右目の陥没)左眉が右眉に覆い被さり、
雲型の眉、鼻や鼻筋、両小鼻脇の大小の隆起などは平山熊野神社の安永九年の小兵衛の記名がある獅子頭
と類似しているデザインである。畔藤熊野の小兵衛の獅子を黒くしたのが西大塚薬師堂の最古の獅子になる。
小兵衛は神社によってデザインを変えるという、こだわりがあったのではないか?
柳は昨年あやめ公園から出た太い柳
最近、獅子彫で使える便利な道具を導入した。スピードコントロール付き電動グラインダーの強力な
回転力を動力にした彫刻機である。直径7cmぐらいの丸い刃のついた円盤が回転しサクサク木材をえぐ
る事ができる。柳の乾燥材を彫刻加工する場合、柳に粘りが出てノミによる加工が困難になるのだ。
今回は顎を先に制作し、小兵衛モデルの獅子頭の頭部の寸法とすり合わせながら、頭部の制作を開始
した。
この獅子頭の一番幅広い位置が目の下部にあり、これを気をつけないと独特な表情が出ない。よく見
ると総宮神社の歴代の獅子の様に左目が右目より高く眉毛も同様である。小兵衛の作を見抜くには、
その癖を見極める事が大切かもしれない。平山熊野や飯豊萩生諏訪型に見られる雲型眉を直線的な造
形で、成田や五十川に見られる木の葉眉、手ノ子八幡の裏木の葉に発展させた変形眉の原型の様に感
じる型である。
両頬の丸い三つのコブも萩生諏訪型、特に伊佐沢の婆獅子にも見られる。鼻も同様に大きく丘の様に
連続した丸い餅を並べたような鼻筋になっている。耳が特異でブナの葉のような容器のように内側が
綺麗に厚みも均等に仕上げられている。この様に仕上げるには、大きく湾曲した柳の葉形の槍カンナ
が必要だろう。
獅子頭の内部からの目や鼻の内えぐりも軽量化や歯打ちの反響も考慮してか、執拗に彫り込んでいる。
それも小兵衛の作の特徴である。
また畔藤熊野の獅子の黒目の縁に2mm程の緊張感のある朱の線が描かれている。飯豊町に伊藤嘉六家か
ら寄付された獅子頭がある。同じ様に目の縁に種が塗られた痕跡を確認している。総宮型でありながら
額はシワが刻まれコブが無く、内部の朱も目の部分までで、後部は黒のまま残されている。記名には嘉
永五年(1852)と小兵衛の時代より100年ほど若いが、塗り替えされた可能性がある。総宮神社の嘉永
八年の作(作者不明)の獅子の顎の軸棒を握る為のスペースの形状と似ているが、如何なものか。
本日も畔藤熊野の獅子頭の制作は続く。
2021年西大塚薬師堂の小兵衛の作をオマージュして制作した獅子頭
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