4月28日の午後、明日29日の朝日町の神社例祭の下調べに出かけた。
途中287号線西部街道を走り佐野原地区に入って、五百羅漢と佐野原公民館の先の右手に参道
の鳥居と石段が見える。いつもは通り過ぎるのだが、気になって初めて寄ってみる事にした。
佐野原稲荷神社にも獅子舞があり、白鷹町鮎貝の「文化交流センターあゆーむ」で開催された
獅子頭展で拝見している。
神社拝殿外壁に奉納札があり、神社建立「元文五年(1740年)の
木札や獅子幕太鼓新調寄付昭和62年8月などの奉納木札があった。
「大」の文字の右上に自然の穴が点に見えるが自然の穴の様だ
杉林に包まれ鬱蒼とした境内に一つの石碑があり、中央に大きく「大神宮講中」と陰刻され
その横に「三日市大夫次郎謹書」と刻まれているのに気付いた。
三日市大夫次郎は、江戸時代に神宮と日本全国の庶民を結ぶ架け橋となった最大規模を誇った
御師(おんし)である。愛知県伊勢市に1800坪の敷地があった。1日に100人近くの参拝に訪
れた人々を宿泊させていた。その歴史は平安時代には存在していて、御師は年に一度日本全国
各地を巡り、神宮の御札、伊勢暦、特産物を配って庶民の伊勢信仰を広め、檀家が伊勢参りの
際には自らの屋敷に宿泊させてもてなした。庶民のおかげ参りが盛んになった江戸時代には、
宇治と山田で900軒余り(享保年間)の御師が活動をしていた。しかし、明治四年、明治政府
による神官制度の改革で御師は廃止され、数ある御師邸も失われていった。
(資料引用 ブラお伊勢 oise.jp/?p=241)
この石碑の文字は三日市大夫次郎謹書、昭和四年十月二日とあり建立されたのは意外と最近
で、明治政府に禁止された後も伊勢講は脈々と引き繋がれていたのである。佐野原稲荷神社の
獅子頭の形は鮎貝型とも荒砥型とも違う独特な様式である。荒砥出来町の金比羅神社の獅子や
浅立の諏訪神社、山形市黒沢の福田神社の獅子頭が類似した形の獅子頭については以前、当ブ
ログに取り上げている。
佐野原稲荷神社の獅子頭
また長井市五十川郷土資料の「 平吹市之丞の功績 平吹太蔵著」には三日市大夫次郎につ
いて書かれている。
「又、敬神の念厚くして始めて伊勢大神宮参詣の折三日市大夫次郎を介して、金九十五両を三方
役所に納付し長井講と称する講社を組織し伊勢大神宮より御祓様一千躰を年々無料にて送付する
ことを約し購買に加盟したるものは現今、米澤地区に止まらず山形酒田の二市村山置賜田川の八
郡に跨り毎年二月八日を以て伊勢内宮に於いて大々御神樂奏行其の他購買全部齊戒遥□を行い
此行事は明治元年まで続きたりと云う。現在鎮守境内南側の巨石の碑は其紀念なりと云う。五十川
の伊勢講は明治十八年まで続きて満期完了して解講したり。その他小松町大神宮と伊勢大神宮との
間に神事について面白からざる意見の対立より紛争を生じたる折は小松の神主の依頼により伊勢に
出張して意志のの疎通をはかり融解して双方より多大のの感謝をうけて目出度帰郷せし事あり。
氏は美術趣味に於いては彫刻漆器の遺品によりて知り得べた僅かに現存するものに西根村草岡阿弥
陀堂正面の額面、赤湯町東昌寺、額面等は依頼を受けて彫刻し當村鎮守薀安神社に奉納したる龍頭
式獅子頭は彫刻より塗り仕上げまで一式自身にて制作したるものと云う。自宅に存在するものは額
面と椀類の彩色漆器等なり。」とある。
大神宮の石碑は各地に設置され、今では考えられない伊勢神宮との強い関わりのを残しているのだろ
う。
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