縁あって明治期川西町西大塚中沖住の渡部十(重)左衛門の作の獅子頭が訪れた。
十左衛門家の親戚筋の某家に伝わるもので、小振りの獅子頭である。
記名が残され「 塗直シ 永井屋二代 渡部十左衛門作 」とある。
永井屋は明治期長井市の塗師と思われ、同所西大塚の十二神将の十左衛門作の獅子頭に
明治25年獅子刻ホリ人 渡辺重左衛門「永井屋?之助」と記名が残されているので。同じ
時代に制作された小品の獅子頭なのだろう。
十二神将の獅子と記名
某家の方から十左衛門の孫が日本画家だった事を耳にした。明治30年から大正14年75才
までの生涯に雅号を風外と称して活躍したという。当時日本画の名士、狩野文心や菅原白
龍の長女 玉龍に師事し修行を始めた。祖父の彫刻師の才能を受け継いで多くの日本画を残
したとあり、昭和62年、大塚の高徳寺で「故人 渡部源太郎翁(雅号風外)画伯遺作品展
示会の際のパンフレットコピーを戴いた。
十左衛門作の獅子頭は一見して十左衛門の特徴を表して、このスタイルを一途に彫り続けた
実直さは、宮内の菊池熊吉と重なる。改めて見てみると耳の形が新潟の村上の獅子頭の特徴
で鼻髭が植えられていることから、長井の総宮系の獅子頭の特徴が見られる。脳天には鉄板
で作られた二重の円盤に鋲で留められ、この辺では珍しい手法である。高畠亀岡で見た長野
方面の様式にも似ている。目と目の間の六重の山型が十左衛門の獅子の十八番で、南陽市梨
郷神社や川西町大宮神社、米沢市六郷桐原 八幡神社で十左衛門の獅子頭を発見している。
中沖の十左衛門家から少し離れた八幡神社の南、八幡地区に飛騨高山で腕を磨いた宮大工金
子熊太郎の生家がある。風外と熊太郎は年代が近く同時期に没している。風外の祖父十左衛
門とも交流があったかも知れない。十左衛門の獅子の越後系の特徴がその関係性を物語って
いる。
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2023.10.05 (獅子宿店主)コメントありがとうございます。
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2023.09.22 (タイム風呂敷)神主様の件
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2020.11.10 (鬼喜來のさっと)追記
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2020.11.10 (鬼喜來のさっと)お返事有難うございます。
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2020.11.05 (獅子宿店主 渋谷)鬼喜來のさっと 様
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