獅子頭 斎藤與次兵衛伝
総宮神社の獅子頭役を長年に渡り務めたという斎藤與次兵衛の話。先日、予てから強く
関心を寄せていた與次兵衛について、その御子孫から話や資料を拝借してきた。ご自宅
は長井市新町で総宮神社から直ぐの場所である。
斎藤氏の名は明治18年と大正15年、昭和3年に制作された獅子頭に残されている。
どうゆう事情か明治28年の獅子には獅子頭 金田幸助とあり、その後、大正15年の獅子
頭に名前が残されている。
斎藤氏の祖先は最上氏の家臣で慶長五年(1600)の長谷堂の戦いの後、兄は小出に、
弟は宮村へ移った。(兄弟の名前不詳)その後、宝永6年(1709)斎藤正重が本願主
を務め再興する。そして、その後斎藤憲重(1752生まれ)が中興初代の斎藤與次兵衛
となり、大いに栄えたという。
(竹田市太郎氏講演資料「宮・新町の歴史 上下 平成15年」より引用)
馬頭観音像は安部貞任の娘「卯の花姫」が黒澤荒二郎 季行に彫らせ祀ったという説も
ある。
最初に彫られてから数百年を経た劣化の為、像が損じて俵に入れてあった像を宝永7年
輿次兵衛 正重が京都仏師 「だいちょう」と言う仏師に依頼し再興したとの説もある。
(竹田市太郎氏講演資料「宮・新町の歴史 上下 平成15年」より引用)
馬頭観音像の再興に尽力した 與次兵衛の先代の正重の有能ぶりが伺える話である。
また新町の起こりも興味深い。井上小左衛門が慶長3年(1598)頃 上杉景勝が越後か
ら会津へ移封の際春日右衛門の家来として就いてきた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦
いで直江兼続の最上攻略の際、足軽100人の長として兄と共に出陣した。長谷堂の戦
いで名誉の負傷をしたが帰還した。叔父に養子に入り井上を名乗る様になった。戦い
の功績として新町26軒、百姓役三間半の割り出しを許され「検断役」を仰せつかる。
しかも世襲を許される様になった。
・・・とあり小左衛門は戦の功績で特権と権力を手に入れた訳だが、小左衛門は上杉
の家臣で輿次兵衛は最上の家臣だった訳であり、敵同士の関係であるにも関わらずお
隣さんになったのだから不思議である。この時代もラグビーのノーサイド的な社会背
景があったのだろうか?
大正期の写真も数多く拝見したが、特に総宮神社の社殿の様式が現在と比べ、装飾も
なくシンプルな茅葺き屋根の拝殿に驚く。この様式は現在でも市内各地に多数見られ
る。この写真は與次兵衛が神社に外灯を奉納した戴いた(三浦長七郎より)記念撮影
と思われ、手前の石柱の上と拝殿入り口にもハイカラな外灯が一対見られる。
総宮神社の獅子舞 獅子頭は昭和3年の竹田吉四郎作と思われる(斎藤氏所蔵)
総代方の記念撮影だろうか?(斎藤氏所蔵)
ここからは総宮神社拝殿の写真
五所神社警護の加藤四兵衛が総宮神社の警護も務めている
敬称略 斎藤氏より文章記述の誤りのご指摘を頂戴し修正しています
2019.10.02:shishi7:[コンテンツ]
この記事へのコメントはこちら