山形市いたか神楽の足跡

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12月5日 山形市三日町 故三浦健治氏宅に訪れた。

三浦健治氏が神楽の太夫として伝えていた餌鷹神楽(えたかかぐら)は、もとは山形餌鷹町(六日町の内)にあって「霞城太神楽」と称し、代々山形城の御用を勤めてきた古い伝統を持つ神楽だった。

延文元年(1356)に斯波兼頼の山形城築造に際し、初代「和田幸太夫」が城の地固めのために神楽を舞ったのが始まりと伝えている。今に伝える獅子頭は、最上義光(よしあき)から奉納されたと伝えられ、獅子頭の内部に 文禄三年(1594)の刻銘がある。和田氏は城の鬼門に当る一角、極楽寺
門前の餌鷹町に屋敷を与えられたが、大火で焼失したが義光公から拝領した獅子頭だけは難を免れ
「生き獅子」と呼ばれる様になった。

和田太夫家は毎年正月に鈴川町印役神妙神社で舞い初めをし、四月末日に蔵王の酢川神社で打ち止め
するまで、各町内を回って悪魔払いをしている。

                                参考 山形の歴史 後編

また、別の資料には


「イタカマチ神楽」について

毎年正月がくると6・7人の獅子舞いの人たちが山形市内の家々を回る。
新春を祝うこの獅子舞いは、市内の殆どの家を4月頃までかかって一軒一軒順番に回って行く。
「そろそろ、うちの方も獅子舞が来る頃だ」という具合に、各地区を回る時期は昔から殆ど変わる事無く、又、各地区で獅子舞の人たちに昼食を出す家というのも、その家のおじいさんさえその訳を知らぬ程昔から、ずっと決まっているらしい。

この獅子舞は、正式には「霞城太神楽」と呼ばれ400年も昔から続いている。延文三年(今から
650年前)山形城地鎮祭の時、奉納された獅子頭(運慶の作といわれている)を使い、城主 最上
義光公の頃より家中回りを許され、以後、太夫は21代を数え、今日まで続いている。

この神楽は市内ではむしろ「イタカマチ神楽」という呼び名で知られている。今の県庁の裏手にあった太夫の屋敷の前を義光公が通るたびに「太夫居たか?」と大声で呼び、その声を聞いたマチの人々が、いつしかこの屋敷の周辺を「イタカマチ」と呼ぶようになったのが、この名の始まりだという。

又、他の地方の獅子とは違って、この獅子頭には毛(たてがみ)が無い。義光公が「ケガナイほうがいい」と言って毛を取らせたのだという。

この様な言い伝えは、この神楽が実に生き生きと、山形の人々の生活に根ざし、一緒に呼吸してきたのだという事を如実にに語っている。「芸」というものを、人々の生活の中で考える時、この事は
多くの貴重な示唆を含むものであるように思える。

演じられた内容は多くの種類が有るが、今回、三浦建治1代太夫を中心とした「イタカマチ神楽保存会」の方々に演じていただく事になった神楽は以下の内容である。

「曲バチ」
飾りのついたバチを何本も空に飛ばし回す。天の岩戸が開いた時、それまで使っていた松明を人々が要らなくなった為、放り投げたのが始りという。





「五階茶碗」
茶碗を崩れないように高く積んでいく。護摩を井桁に組む所から出来た曲芸。




「傘回し」
番傘を持って雨乞いをしていた町の人々を見て、義光公が太夫に傘を使って曲芸をやってみるように
話したのが始りらしい。







「獅子三番□・長獅子」獅子とヒョットコが演じる20分位の三番□。四つの部分から出来ている。最初に春を祝う獅子舞(三番□)やがて、荒々しく猛り狂っていく。(狂い獅子)そのうち獅子が疲れてぐったりしている所へヒョットコが登場し、好き放題暴れ回る。やがて力を回復した獅子が、ヒョットコを食べてしまう。

   
資料 記録映画「三里塚 辺田部落」の上演の際のパンフレット 神楽公演の解説文より



今回、三浦太夫の奥さんから獅子頭や神楽面等を拝見し、神楽のお話と百枚以上の写真と神楽の動画をお借りする事が出来た。








獅子頭の形は南陽市漆山神社と良く似ているように思われる。













ご自宅で拝見した獅子頭の詳細については全く不明で、義光公の生き獅子とは異なるものだった。小将町にあるらしいという話だったが定かでない。

イタカ町神楽は三浦氏が亡くなる前に、蔵王上野(うわの)の高橋清助氏に神楽を伝えてありイタカ神楽の伝統が幸いにも引き継がれている。

二つの資料にあった和田太夫に伝わる義光公奉納の獅子頭を一目拝見したいものである。
2017.12.06:shishi6:[コンテンツ]

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