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多才な弥兵衛さん

  • 多才な弥兵衛さん
長井市大町で幕末から明治にかけて活躍した獅子彫り師 梅津弥兵衛さんのご子孫に取材した。


ただ貴重な資料が多く、調査には時間がかかりそうである。


意外な事に明治時代から写真屋をしながら人力車屋を経営した当時の写真もある。


獅子頭の制作という伝統的な技術を極めながら当時ではハイテクである写真技術を手掛け

人力車とは・・・柔軟な発想力を備えていたのだろう。


矢印は、立派な彫刻の板看板「冩眞」という文字が見える。

左後方には、火の見やぐらの足が見える。大町のポンプ小屋辺りかもしれない。


以前、大町の大東薬局さんの北隣に小さな消防ポンプ小屋があり、人力車を飾っていたが、


考えてみると弥兵衛さんの人力車の可能性もある。


元写真館のご子孫は30年前に蔵を解体した時に出てきた資料を多数保存しておられた。


弥兵衛さんは指物(さしもの)大工でもあり、手描きのタンスや茶タンス、仏壇の平面図など


の図面も見つかった。



弥兵衛さん60歳、奥さん59歳のツーショット明治20年の還暦の記念だろう。





この自分用の三十三箇所巡礼のお札の版も自作だろう。注 画像処理して反転している

これから少し時間をかけて資料を紐解いていきたい。


川西小松新山神社の獅子頭 梅津弥兵衛の作
2016.04.03:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

秘伝の儀式

ついに公開する時が来た・・・。

成田八幡神社の獅子連中内部で密かに継承されていた儀式なので本邦初公開だろう。

但し、今だ写真公開は厳禁なので読まれる方の想像力が必要だ。

文章の表現力が問われるが、力不足は否めないので期待しないで戴きたい。


「しゃんしゃん」と呼ばれ獅子連中も残念ながら、その由来や意味は伝わっていない

まさに秘伝中の秘伝の神聖な儀式である。

だが、突拍子もないような事でもないので期待過ぎも厳禁だ。

・・・もったいぶっているが、本当に公開して後悔しないかまだ迷っているのだ。


獅子舞が終了し、水垢離した後に下帯姿で行う。

写真が無いので獅子舞の前の出祝い(仮称)の場の写真でイメージを膨らませていただきた

い。

車座になって衣装を脱ぎ、疲労困憊の獅子振り達を思い浮かべてほしい・・・。









まず角力(すもう)が神前に捧げたお神酒(成田では錫(すず)という)に付いている二つの

紙で作った栓(紙飾り みきの口)を取り角力、頭(かしら)、小頭二人の湯呑みに注ぐ。

そして角力からその湯呑みを頭、小頭に配りそれぞれが口を付ける。

そして役職を言いながら順に受け渡し一周させ元に戻すのだ。

その時に駈けるかけ声が「しゃん しゃん しゃん」なのである。

角力「しゃん しゃん しゃん」

全員「しゃん しゃん しゃん おしゃしゃのしゃん しゃん」

頭 「家内安全」

全員「しゃん しゃん しゃん おしゃしゃのしゃん しゃん」

小頭「交通安全」

全員「しゃん しゃん しゃん おしゃしゃのしゃん しゃん」

小頭「豊年満作」

全員「しゃん しゃん しゃん おしゃしゃのしゃん しゃん」 

頭や小頭の発する言葉に決まりは無いそうで、「身体堅固」という時もあるそうだ。

                          関係者談より引用

「しゃんしゃん」で検索してみると、西日本近畿地方・・(佐渡にも)の手締めのかけ声だっ

た。

おしゃしゃんで検索すると、だんじりの手締めが出る。

長野県の大鹿村の「大鹿歌舞伎」の最後の舞台での手締めでも「おしゃしゃん」が出て来る。

youtubeで探すと三重県伊賀「陽夫多神社 裸々押し」が下帯姿で手締めの様な所作が似てい

る。



一説では「しゃんしゃん」の意味は「めでたい」で「おしゃしゃん」は「なおもめでたい」と

いう意味なのだそうである。


こうしてみると成田の秘伝の「しゃんしゃん」の儀式は西日本の文化の影響ではないか?


この前ご紹介した文久3年の獅子頭の記名には「宿 佐々木忠右衛門(成田の豪商)」と丹州

岩瀧(丹後は京都北部)の絹織物問屋の糸井品蔵が寄進とある。

その当時の盛んに行われた最上川の舟運文化交流があり西日本の「手締め」の影響が成田の

獅子舞の儀式に溶け込んだ事が想像出来る。

これも又想像だが、文久3年の成田八幡の例祭に獅子舞いが行われ、寄進した糸井品蔵が招か

れ最後の打ち上げに行われた丹波式の手締めが、今現在にも受け繋がれているのではないか?

獅子連中が大切に大切に守り続けているのは、養蚕や絹糸産業の華やかなりし時代、東西文化

交流の歴史の余韻でもある。



2016.04.01:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

二人の彫り師

  • 二人の彫り師
文久3年の記名のある成田の獅子頭制作者の謎に迫る。

結論から言うと不明のままです。

記名にあった彫工には塗師の齋藤藤三郎の名前と山田伊七、菅野吉太郎とあったが

その当時の交通事情を考えてわざわざ京都まで平吹獅子を送り京都の彫り師に作らせるのも

現実的ではない。やはり地元の彫り師だろうと総代の命を受け洗い直しする事になった。

当初から文久3年の獅子頭は梅津弥兵衛の作風で勝手に梅津弥兵衛獅子と決めつけていた。

文久3年に制作したのであれば梅津弥兵衛はその時何歳か?

すると以前作っていた伊佐沢神社の拝殿に飾ってあった資料がある。

梅津弥兵衛の写真付きであ。

たぶん、弥兵衛の婿入り先の大町の梅津写真館さんからの資料だろう。

明治20年十日町竹田家よりの婿入りした記録や昭和62年に塗り替え修理した時のメモ書きが

あった。

それによると文久3年は1863年で弥兵衛は36歳である。若い!

文久元年には飯豊町黒沢坪沼の熊野神社の獅子頭を制作している。その神社には板に描かれた

菅原白龍の熊の親子図がある。白龍とも親交があったかもしれない。

その他、川西町新山神社、長井総宮神社、九野本稲荷神社、平山天満宮、寺泉五所、川原沢巨四王、

草岡津島、森の津島、森の観音、小出白山、泉の羽黒、時庭豊里、河井若宮八幡、九野本八雲等

に獅子頭を納めていると見ているが、まだまだ有るかも知れない。

さて、もう一人その当時活躍した彫り師が居る。

勧進代の長谷部吉之助だ。こちらも以前ご紹介しているのでご記憶の方もおられるだろう。

調べてみると文化13年(1816)生まれ。文久3年では47歳である。

蒲生正男氏著の「奇人彫刻家 長谷部吉之助」に詳しく描かれている。

気になる所は



文久3年の記名にあった佐々木本家で菅原白龍と長谷部吉之助が製糸場を視察に来た大久保利通を

長谷部が芸で接待したという記録が面白い。

彫刻や絵画に留まらず芸能にも秀でていた長谷部吉之助も制作したのではないかという

憶測が頭を持ち上げて来る。

今回も成田の文久3年獅子は誰が制作したか結論は出ないのである。

2016.03.29:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

昭和29年の彫り物

  • 昭和29年の彫り物
昭和29年に創建された神社が解体され石碑として生まれ変わる。

戦後間も無く高度成長期がいよいよ始まりの頃だ。

今はまだ訳有りなので詳しくは紹介出来ないのだが・・・。

その解体された社殿を飾る彫刻の一部を戴いた。

先日神社の解体情報を知り、知り合いに案内をしてもらい見に行った。

小振りの社殿に比較的若い作風の彫刻があり、その龍の眼の作風に見覚えがあった。

やはり記名を見つけると南陽市法師柳の農民彫刻家「佐藤耕雲」だった。

西大塚の薬師堂や犬川龍蔵神社、長井草岡の津島神社や寺泉五所神社にも獅子頭を納めている

彫り師である。

その耕雲が神社の彫刻を制作していたのだった。

ここから直ぐ近くの例の詳しいオジサン渡邊氏も知らなかったので、子供の様な優越感を覚える

のは否めない。笑



最近、こんな発見の連続で楽しいのだ。

さらに・・・彫刻の譲渡の件の連絡を戴いた、その神社の神主宅にお邪魔しお茶飲み話の中に、また

発見があった。


こちらの神社の獅子舞の由縁は大正時代に遡る。

神社近くの獅子舞いに魅せられた若い衆たちが勝手に獅子頭を用意して自主連による獅子舞を始めた

そうだ。

評判になり、ご祝儀も集まったが神社の総代がその話を聞きつけ、若い衆を諌めたらしい。

神様に断りも無く獅子舞とはケシカラン! 獅子舞いするならば、ちゃんと正式に習って神社のお祭

りでしなさい・・・と。

アチコチ獅子舞いを見て歩いた獅子舞通の若い衆達は、なんと長井の成田の獅子舞いを指名したそう

だ。

早速、若い衆達が長井まで急造の獅子頭を持参し成田若宮八幡神社に獅子舞習いに通ったというのが

獅子舞の始まりらしい。

尚、この話は多少酔いの勢いで脚色され、成田八幡神社の関係者の証言の確証を取っている

前倒しの話なので話し半分である事をご了承戴きたい。


こうして見ると未だ未だ、こういった獅子舞四方山裏話が潜んでいるようだと確信した。

もっと人生の先輩方の話に耳を傾けるべきだなと感じたのである。




2016.03.27:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

記名に歴史ロマン

  • 記名に歴史ロマン
獅子頭の裏に記名がある。

長井の獅子頭の裏側は見えないにも関わらず、見える表と同じ様に綺麗に仕上げられている。

そこには獅子頭の制作した年月日、神社名、彫り師、塗師を書き入れるのが通例となっている。

そこは軸棒が取り付けられ細かい字を書き入れるのは誠にめんどくさい。

とくに成田の獅子頭は特別で、制作年月日の他に総代五六名、角力名、獅子連中二十名、先払い五六

名、彫り師塗師と半端でない人数となる。

狭い場所にこんな大勢の文字を書く事は稀で、コレだけの手間と技術料の価値は悲しいかな重要視さ

れていない。


さて、成田の獅子頭に「稽古獅子」と呼ばれている獅子頭があり、この度当工房で修理を行った。

ちょっとしたヒビの修理と、開けてみてビックリ。

平成元年に修理記録があり、その時に鼻の数カ所に鉄板を入れ修理していた。

鉄板絆創膏でも30年も持たせたのだから大したものだ。

それらを除去し、ガラス繊維とポリエステル樹脂による強化プラスチックで固め補強した。

昨日の引き渡しの際、記名の話になった。

記名については赤外線撮影で、大規模に修理の際、現在表記なっているものを塗りつぶし

同じものを書き直ししていると判断していた。

その中に気になるものがあり、うっすらと調べていた。

「奉寄進 丹州岩瀧 糸井品蔵 」である。

調べてみると丹州は京都の丹波地方。岩滝はその与謝野町。

それ以上発展せず放置していたのだが、成田の角力の飯沢氏が深く刺さって調べてきたのだ。

さすが成田の角力!!





記名にもある「宿 佐々木忠右エ門」は成田で養蚕絹糸で財を成した豪商で最上川舟運で

京都に絹を運び栄えたのだ。そこに丹州岩滝の謎を解く鍵があった。

糸井氏は京都の絹糸問屋糸井織物で、絹で儲けた財力を獅子頭の奉納で還元したのだった。

また記名には「彫工塗師 齋藤藤三郎 山田伊七 菅野吉太郎」とある。

齋藤藤三郎は齋藤仏壇の初代だが、後の二名は聞いた事が無い。

しかし、山田や菅野の姓はこの辺でも良く聞く苗字だ。

もしかすると、京都や他所で作らせた可能性ありだ。

成田八幡神社で最古の獅子頭は平吹市之丞の作と伝えられている。

もし、二代目の獅子頭を作るとすれば、その獅子頭をモデルにするはずであると疑問を抱いていた。

その疑問が解決した。

有力者がタッグを組みトップダウンした・・奉納だったのだ。

受け入れ側の多少の大きさや表情の違いのこだわりは四の五の言えるものではなかったのだろう。

そう考えてみると作者が固定せず「稽古獅子」と称されてしまったのは獅子頭にとって浮かばれない

のかも知れない。

いやぁ~記名の中に歴史ロマン有りである。





 



2016.03.25:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]
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