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梅津弥兵衛2

  • 梅津弥兵衛2
長井市大町の獅子頭彫り師の梅津弥兵衛・・屋号「若木屋」の聞き取り調査の話しだ。

この木札は総宮神社の氏子札・・今で言えばマイナンバーカード。


もう弥兵衛から12代目の方も亡くなり、その細君だけで途絶えようとしている。

昨日その方から、残された写真や資料を拝見したのだった。

以前も、ご紹介したが弥兵衛氏は文政11年(西暦1828年)十日町竹田清兵衛の三男として生

まれ二十歳の時に大町梅津家に養子に入っている。

指物大工としての器用さ才能が、その資料に残されていた。

箪笥や仏壇の手描きの図面、羽織紋付の家紋の型が多数あり小さな刷毛も残されていた。




その時代の最先端である写真術も取り入れながら人力車業も興した写真も残している。

長井小学校建設中の写真や扇屋の店の前での同級会の記念写真もあるし・・






謎の合戦中の写真もあった・・明治期に長井で戦が起こったのだろうか?






最上川舟運で賑わう十日町を背景にしたロマンが漂う記録だ・・・。

さらに驚くべき事に、その写真にあった板看板も梅津家に残っていた。

・・とすると、この看板も弥兵衛の作ではないだろうか?





人力車宿は十日町の田端という地名にあったらしい。



また梅津家には弥兵衛氏の記名のある残した資料の古本が沢山残されていた。

如何にいろんな事を学んでいたのかが分かる。


まさに今・・残さないと消えてしまう話が現在山ほどあるので気揉めてしょうがない。


2016.04.26:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

獅子発掘

  • 獅子発掘
成田の男達も、ナカナカ見た事無い獅子頭を発掘だ!

掘り返した訳でないが、成田善明院に御願いして本邦初公開の赤い獅子頭である。

その昔・・善明院は寺子屋を行なっており何時しか、その有志たちで文殊様のお祭りで獅子舞

をする様になった。

正確な記録が無いが、起源の参考となる大正時代の古い幕があるそうだ。

その幕には石山染め屋さんの銘があるとか・・。



獅子頭には記名が無く作者も不明だったが、獅子相を見て直ぐに頭に浮かんできた彫り師が

竹田吉四郎だ。


元々あった黒獅子が大きく重くて子供には大変と、その獅子を手放して新しい獅子頭を

依頼したが、代金足らず某総代に補填してもらう、そのお礼に小さな獅子頭を贈ったという。

現在は成田八幡風の小形三郎氏の黒い獅子で子供達によるお祭りをお盆に行なっている。






初対面のイメージでは勧進代の遠藤森助の作と言われる獅子頭に似ているような気がする。

(遠藤森助の作と伝えられているが、別の越後の匠ではないかと推測している)


まず鼻・・・耳も大きくて薄く、歯も細かく数も多い。

目玉も飛び出しギョロギョロし、目尻もつり上がりキカナイ顔付である。

眉も巻き毛で何となく鼻筋の造形も類似している。

何故赤くなったかが最大の疑問だ。

成田の人々・・とくに獅子関係者や神社獅子連中は、獅子頭に対して相当な愛着を持ってい

る。

獅子については曰く因縁数多い、その地区に赤い獅子頭がある事が驚きなのである。

まぁ・・その謎については、ゆっくり掘り下げていくとして

今度は、この赤い獅子頭の代わりにトレードされた、黒い獅子頭と小振りの二つの獅子頭の影


が気になってしまう所である。


形は黒獅子系で色は赤い系統の獅子頭では白鷹町町下の熊野神社の竹田吉四郎の作の獅子頭

だ。



ただし、形は川西町西大塚の薬師堂初代の同氏の作の獅子頭と酷似している。

形はやはり勧進代総宮・・・。

その町下熊野の獅子を制作の頃、竹田氏が制作した可能性有りだ。

竹田氏は大正元年に長井で教員を退職し、その後獅子彫りに没頭しているので時代的には合致

するが・・・・推測は証拠無ければ幻のままなのだ。


追記

5000円の赤外線カメラもついにスクープか!?

謎の赤い獅子の口の中に文字と思われるもの発見!

多分、普通こんな場所に記名を残す場所ではないので老眼のせいかと思ったりと・・如何なも

のか。




2016.04.26:shishi5:コメント(1):[獅子彫り日誌]

春恒例

  • 春恒例
春には大風が吹く・・・毎年恒例だ。

その為に過去、ビニールハウスがぶっ飛んだり被害は大きいが・・今年はまだ被害無し。

花見と称して清水町12組の皆々様が獅子宿に集まり会食する・・最近恒例だ。

皆さんは中央タクシーさんの出っ歯バスのレトロンでお目見えも恒例。





何時もの春がやってきたのだが、何時もと違う素早さで桜は大風と共に過ぎてしまったよう

だ。

恒例の伊佐沢念仏踊りの4月23日夜桜公演に向けての稽古も始まった。

稽古の後に久保の桜を眺めにいってみると、思い描いている久保の桜と違う桜が

ライトアップされていた。

何時もの春なんだが・・・ちょっと違う。







2008年頃の久保の桜を見てみると、たった8年でこの変わり様に驚く。

以前、冬に久保の桜を見に行った時、湿った大雪が枝に着き重みで折れた枝を見た。

あれから・・あれよあれよと枝が少なくなり無念な姿になってしまった。

四反桜と言われた時代もあり、枝が側の逆さ川まで伸びていたという。

樹医による治療も功を奏さず、古桜の名勝も消えてしまうのだろうか。

2016.04.18:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

享保獅子

  • 享保獅子
今日は異様に風が強く荒れ狂っている・・・熊本は地震で揺れている。

咲き出した桜にこの大風も影響大だろう。





享保雛は良く聞くが享保獅子と呼ぶと優雅だ。

川西町時田の八幡寺の雌獅子と呼ばれている獅子頭だ。

雄獅子は雌獅子に比べると意外にも小振り。

雌獅子は脳天に如意宝珠があり、雄獅子には半球の百毫状のものが付いている。


雌獅子の内部には記名があった。

亨保拾三戌申 五月十五日 

御獅子

八幡大菩薩

奉 

寄進

昭和六十年

大修理

中津川

渡部 亨(とおる)・・・とある。

晩年の渡部 亨氏が獅子頭にこうハッキリと明記している獅子頭は珍しい。







確かに割れの頭部と舌に大修理痕があり、カシュー塗料にて全部塗り替えされてしまってい

る。

享保13年と言えば278年前でこちらの一対の獅子頭は川西では最古と言われ、獅子舞いは

長井の五十川蘊安神社の獅子舞を習ったと聞いている。

五十川から習う前は、型が無い「やー獅子」だったという話で、川西や米沢の一部が

舞の無い獅子舞いのまま途絶えたり、子供に引き継がれたりしている。

先日取材した米沢市長手の三宝荒神神社のように、最初神楽師が行なっていたが

青年団に受け継がれ子供にバトンタッチした形である。ムカデ獅子は複数で受け継がれる為

絶滅し難い獅子舞だったが、これからはかなり厳しい伝統となるだろうと予感している。

しかし最近、連続して古い獅子頭の出会いで嬉しいものだ。


この享保獅子が同町朴の沢の熊野神社の獅子頭と似ている事に閃いた!

以前見せて戴いた時の写真と比較すると、全体的に類似性が有り、特に眉毛と唇の彫りが

共通していた。こちらも享保獅子の可能性有りである。



2016.04.15:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

白鷹で文政13年の獅子見分

  • 白鷹で文政13年の獅子見分
未知の獅子頭との出会いは心トキメクものだ。

また今日も出会いがあった。


定休日の午後から白鷹の山口地区へお邪魔した。

来月お祭りの山口羽黒神社の総代のお宅に、お借りしていた獅子頭の返還だ。

山口地区には四箇所の寺社で獅子舞があり、総代の地区の薬師瑠璃光如来堂に伝わる獅子頭の

修理の見分もあった。

返還後、薬師堂の獅子頭を保管しているお宅にお邪魔した。

赤外線カメラで撮影し見ると、なんと文政十三年(西暦1830年)と獅子頭の箱に記名があ

る。


186年前から一度も塗り替えしていない保存状態の良い獅子頭と思われる。

タテガミも金髪に変色しているが現存している。

眼に珍しい凸のガラスが嵌め込んであり、

耳と眉毛に多少の破損だけで186年も受け継がれてきたとは思えない状態である。








見分の後、薬師堂に訪れてみたが、外見は彫刻も無く地味である。ところが内部を覘くと

保存状態のいい獅子や貘や鳳凰の彫刻、絵馬も確認出来た。










獅子頭の後ろから見ると気づく事があった。




木口付近の作り方が長井の獅子頭に見られる特徴があるのだ・・・。

自分もこういう作りをするのでわかる。軸穴付近の割を考慮し厚く仕上げている。






年代を見ると長谷部吉之助でも無ければ平吹でも無く梅津弥兵衛でもない。

拝殿を調査し獅子頭の奉納札など発見出来れば作者が分かるかも知れないので興味深い。 
2016.04.14:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]
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