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稽古にOB現る

  • 稽古にOB現る
長井小獅子舞いクラブの稽古にOB先輩中学生が手伝いに来てくれた。

以前、訪れて来てくれた先輩はあるが、部活の休みを使って2日連続で稽古に来てくれたの

だ。

二人とも獅子舞いには事の他熱い小学生だったが、中学生になって少し大人びた姿で稽古に

突然現われた。








彼らの熱い想いを感じる。



そして笛や太鼓、獅子舞で後輩の指導を買って出てくれたのだ。




今年も法螺貝女子四年生が頑張ってくれて獅子の咆哮をご披露出来る。





新しい警護は四年生だが、もう貫禄を醸し出して来た。




続けて来た獅子舞クラブから、何よりのご褒美を貰った。
2016.05.17:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

川西堀金の證誠寺へ

  • 川西堀金の證誠寺へ
五月晴れの勢いで西大塚、岡の取材から堀金の證誠(しょうじょう)寺に突入した。

途中、代掻きが始まった田園の美しさに見とれ、しばし青葉薫り繁る風景に目を奪われた。

湿度が少ないと、景色もこんなに透き通って見えるのだ。







街道を通らず、あえて知らない道を行くと、知らない神社に出会える。

先日も同所、谷地の宝蔵寺と隣接する鬼子母神の彫刻に出会い彫り師の金子熊太郎

を発見した。



さて證誠寺は隣接する熊野神社の別当でもある。

まずは熊野神社の消えかかっている奉納札の墨書を赤外線カメラで見てみる。

バカチョン赤外線カメラに、バカにならない発見を期待しているのだが・・なかなか。








さて證誠寺には、古そうで意味有りげな趣きの気になる獅子頭がある。

宮内の熊野大社の證誠殿で獅子頭展を開催した事があり、ひときわ異端の様相を見せていた。

その魔界からの使者のような顔付につい魅了され写真からレブリカ制作をしてしまった。

写真だけの情報では納得せず悶々として月日が経った。


取材の連絡も無く訪れるのは誠に失礼であるが、お寺や神社には無礼な訪問者には寛容である

事を信じているのだ。

ご住職が庭の手入れに精進している。

訪問者に気づかれた。

突然の訪問者は武器として名刺を渡し「獅子頭を彫っている者ですが・・」という殺し文句を

突きつける。

意外な自己紹介で煙に巻く手法である。

さらに「置賜の獅子頭の調査取材をしておりまして・・」と迫撃砲を放つ。

分かった様で分からない理由に、ついついご住職は獅子頭の安置しているお堂を意外な程

すんなりと公開していただいたのだ。

更に、向かい側の拝殿に案内されてしまう展開。

私は別に催眠術を使った訳でもないのだが、私の純粋な探究心を察知されたのだと確信した。

逗子の扉を開くと、それは見事な見事な仏様が現れた・・・・思わず手を合わせ合掌。       



左手に薬壺を持つ薬師如来像・・蓮華の台の淡い緑が美しい





不動明王の炎が鈍く光っている。金箔が押されているのだろう。ストロボに反射して

紅蓮の炎が揺らめいている。せいたか童子か、こんがら童子の腕が破損し落下している。




ご本尊の台座に鮮やかな彩色が残っている複数の明王だろうか?が、また美しく煌びやかだ。

衣装装飾が見事で、台座をさ支える姿が良い。







ご本尊の上部の龍の彫り物も見事である。複数の棟札を拝見すると古い物で延寶二年

(1674)の年号がある。明治廿三(23)年の棟札に副棟梁として

「金子熊太郎」「菅原寛蔵」の名前が目についた。この彫り物の作者であろう。

金子熊太郎は文頭で紹介した鬼子母神の龍の裏に記名があった同人物。

菅原寛蔵は不明だが、越後の匠の可能性がある。









さて最後に獅子頭について観察してみると、見慣れている形と異なる。

うまく説明出来ないが、獅子の顔付が神社仏閣の入り口にある獅子の彫刻の型である。

以前紹介した山形市の月山湯殿山両所の宮の山門の獅子像の雰囲気に溢れている。





下顎の持ち手は無いが、右手の持ち手棒には握りやすい様に棒の角を削る工夫がある。

巻く穴もあり守護として飾るだけではなかったと推測する。




赤外線カメラで記名を探したが不明だ。




獅子頭については、隣の熊野神社を拝見して調べてみたい。

歴史が古いので神仏混合、神仏分離、廃仏毀釈の受難のいろいろもあるだろう。

奉納札や棟札も楽しい素材である。                                      つづく
2016.05.17:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

西大塚の岡地区で

  • 西大塚の岡地区で
西大塚薬師堂の東に岡地区があり、その個人宅へ獅子頭を拝見に出掛けた。

大塚駅踏切付近である。

岡地区には十二神将の石の祠があり、年に一度大晦日に公民館に集まり祭りとするらしい。



獅子頭には記名があり「渡辺重左衛門」の作で明治25年4月とある。

塗師は「永井屋鶴之助」である。











その家のご先祖は昔、他人の保証人になり財産を差し押さえに事になったが、獅子頭と仏具だけは

直前に親家が預かり難を逃れたという。

幕もあり、獅子舞を行なった微細に痕跡が残されているが、記録は無く詳細不明のままであ

る。

近くの薬師堂は岡の十二神将の別当で、昭和28年頃まで「追い獅子」「やー獅子」と称され

る。獅子頭は個人所有で十二神将のお祭りに若者達が、その獅子頭で地区を練り歩いていたの

だろう。

獅子舞は特別習ったものでなく獅子舞を行なっていたそうなので、この獅子も同じと推測でき

る。

同じ頃この地で「北方念仏踊り」を青年団組織で行なった写真の記録があり、随分地区の若者

達が活発であったかが伺える。

獅子舞いは明治25年頃から行なわれ、昭和初期で途絶えてしまったのではないだろうか?


この獅子頭の作者である渡辺重左衛門は置賜総合病院の南の中沖地区に生まれ、米沢や川西の

獅子頭を制作している。

この獅子頭の形が良く見られるので渡辺氏の作と直ぐ分かった。

獅子箱も残されていて、白鷹の山口で見た蓋がドーム状になっている蓋である。

この獅子頭は本舗初公開。

初めて聞いた塗師名「永井屋鶴之助」が興味深く怪しい。
2016.05.15:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

南陽市漆山神社の獅子頭

  • 南陽市漆山神社の獅子頭
飯豊山がクッキリ見えて神々しい、本日は南陽市漆山神社の獅子頭の取材である。

漆山小学校の西に羽付の稲荷神社がある。



地元の製糸業が盛んだった頃大いに栄えた神社だった。




その東に漆山神社があり、宮司である島貫氏にお願いして獅子頭を拝見した。

一木くり貫き造りの神楽獅子で、軽く作られ被って舞う様式の獅子頭で幕は古くなり無くなっ

ている。頬の巻き毛が彫り上げた巻き毛に描いた巻き毛を加えているのが面白い。

詳細不明の赤い神楽獅子であるが、あまり使い込んだ様子は無く中に記名も無い。









以前の宮司であった松山 東氏宅が焼失し、更に神社が雪崩で崩壊した事もあり、

その神社や獅子頭の歴史由来は不明になったそうだ。

雪崩で崩壊し解体した神社の部材は、移転再興され福島県三春舟引町の今泉神社となって甦っ

たそうである。

部材を荷車に積み馬に引かせて三春まで運搬したのだそうだ。



その後、漆山神社は合社し再建され現在に至る。

ご本尊は神殿の木造聖徳太子像である。こちらも拝見し撮影させていただいた。

彩色鮮やかで神々しい姿である。

最近まで秘仏だったが、あまりに美しい姿なのでご好意に甘えてご紹介したい。





衣装には載金(きりがね)という技法が施されている。

載金は薄い金箔を重ね焼いて、細く切り接着しきらびやかな模様を表現する技法だ。

米沢柳町の仏師 遠藤治三郎 明治三十八年の作。


信仰の深さ故、秘仏という習わしもあり置賜には知られざる美しい仏像、彫刻や建築の神社仏

閣が数多く残されているが知名度や関心は高くない。

故郷の隠れた文化を発掘し、知らしめたいものだ。


2016.05.13:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

白鷹町十王称名寺に・・1270年前の?

  • 白鷹町十王称名寺に・・1270年前の?
廃村になった白鷹町北部の平田部落の熊野神社にあった獅子頭を拝見しに十の王称名寺に向か

った。

昨日アップした円光寺関寺の西側に近隣した位置だ。

称名寺の創建は永和元年(西暦746年)・・・2016年引く746年は?・・・何と1270年前で

ある。

奈良時代の高僧である行基菩薩によって開かれた。伝承によると行基菩薩が背負って来た十体

の王像が、この地の「十王」の由来となったと伝えられている。





これが、その背負って来た「笈」と十王像である。

秘仏で見る事が出来なかったが、現ご住職(73世)になり公開になった。

また江戸時代の切支丹の弾圧の記録や、奉納された幽霊の掛け軸が残っている。

今日の目的は廃村した白鷹町平田の熊野神社の獅子頭の取材である。



こちらの掛け軸は雪村と円山応挙の幽霊を描いたもの。

昔は、この幽霊を家のお守りにして災難除けにしたという・・幽霊まで利用してしまうという

したたかさだ。夜中、この前は通れないだろう。


獅子頭に行き着く途中に、素晴らしい彫刻や書画に目を奪われてしまうの。











怒濤の裏側





本殿の欄間にある龍と獅子の彫り物なのだが、圧倒的な迫力を発散していた。

そのパワーにひれ伏すしか無いのである。


龍の彫刻の裏に回って記名が無いか調べるが無い。

裏も隙がない程の見事な荒波が彫り込まれている。


一旦その場を離れ目的の獅子頭の見分だ。

大きな宝珠が脳天にあり赤い獅子頭である。幕があり、塗りも若くてカシューで塗られているよう

だ。






赤外線カメラで調べも、記名の痕跡も無く獅子は最後まで語ってくれなかった。

平田の熊野神社からは獅子頭の他、太鼓、絵馬三点、棟札数点等などが称名寺に平成5年

再奉納された。


平田部落から荒砥に移転された方の連絡先をお聞きしたので、詳しく後日取材したいと思う。


ご住職が、私が赤外線カメラを持参していると聞き行基菩薩さんが担いで来た笈の扉に書かれ

ている解読不明な墨書の撮影を依頼された。

しかし、金箔に書かれた墨文字は劣化し赤外線カメラの赤外線ビームを跳ね返して

しまった。これこそは、しっかりした公的機関で調査すべきである。


恐れ多い依頼だった・・・もしかしてハッキリ写し出来たら1270年前の記録が判明する大発

見!!だったが、楽しみは、まだ残しておこうという行基菩薩様のお示しであろう。



獅子頭の作者に付いて思い出した。

以前、黒滝神社の獅子頭を修理した事があり雰囲気が似ている。

平田地区から称名寺に来る途中に位置している神社だ。

比較してみると確かに似ている。

資料には昭和13年長井の竹田吉四郎の作とあるので、もと平田熊野神社の獅子頭は

同時期、竹田氏の作の可能性がある。






2016.05.12:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]
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