昨日、桜咲く中の雪景色を眺めに西山へ・・・なかなか無い風景だ。
花見と雪見で風流。
さて本日は、雪に屈する事無く桜の開花が進んでいた・・ぶれる事無く潔い
見習いたい。
午後から南陽市法師柳に向かうと神社に出会った。赤い鳥居の稲荷神社だ。
板塀にある奉納札に目が止まり目を凝らすと「佐藤耕雲」。
法師柳は彫り師佐藤耕雲の生家がある。
ひょっとすると手がかりあるかもと歩けば棒に当たった訳である。
昭和38年に拝殿の彫刻の修復を行ったとある。
さて、道草食ったので急いで北に向かい宮内の漆山に向かう。
漆山小学校西に位置する稲荷神社宮司の島貫氏宅へ約束の3時丁度である。
神社はここから登って20分に神社があるとか・・。
ここで獅子頭を拝見である。
電話では中津川の彫り師 渡部 亨氏の作とお聞きしたが勘違いで初耳の彫り師だった。
記名には 「池黒住 鈴木良吉 作 昭和四十六年吉日」とある。
塗りも金箔も良吉氏の仕事と聞いた。
耳の裏には擦れ防止の為スポンジを貼っている気配りで、実に細やか端正な作りだ。
鈴木良吉氏は宮大工で既に没して、孫の代になっている。
良吉氏の父は重吉で明治大正と活躍した優れた宮大工とか。
池黒の珍蔵寺の山門の彫刻を手掛けた。
重吉氏は近隣の旧漆山神社の社殿彫刻を手掛けたが、雪崩で社殿が全壊し解体、それを
福島県三春町今泉の某氏が買い取ったという。
某氏はその解体した神社の部材を荷車に積んで3日をかけて三春まで運んだという・・。
昔人は現代人には想像出来ない信仰心で、事を達成してしまう事に驚かされる。
また彫り師と出会ってしまった。
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三宝荒神神社例祭
4月9日土曜日強風も午後から少し収まってきた。
桜もチラホラ咲き出したので獅子宿から脱出出来ない。
祭り開始時間が迫りヤキモキしてきたが、詳しいオジサンこと渡邊氏に情報を流したので今頃
は向かっているはずだ。
神社に到着すると、子供達の獅子舞いは既に出発していた。
笛も太鼓も無いので心躍る獅子舞の気配がない。
追いかけると直ぐに発見し、同行させて戴く。
幼稚園年少位のキカナイお兄ちゃんがチョロチョロ道路を渡り傍若無人に振る舞うので
若いお母さんがイライラし始めてきた。叱咤激励どころではない。
我が家では娘三人なので、こういう場面に対峙した経験が無いので微笑ましいのだがハラハラ
して獅子舞どころではない。
こちらの獅子舞の型は単純だ。一軒一軒訪門し玄関先で「獅子舞が来ました~」と子供達が叫
び、ご祝儀を改修して回ると行った形である。子供が多かった頃は、幕も大きく中に10人位
入り獅子頭を触る事も出来なかったそうだ。
獅子舞から神社に戻ると、渡邊氏が拝殿にまさに張り付いて十畳ほどの拝殿で八名程の氏子の
方々と歓談していた。
別当の大學院の住職も帰られ獅子舞いの到着を待つまでの祝宴である。
獅子舞いは二時に出発し四時に戻って来る予定で、長手地区と川西地区を周る。以前長手は弓
町と呼ばれたと古風な名前だったのに勿体ないと感じたが何か理由があるのだろう。
神社の拝殿は以前湯殿山信仰の行屋だったという。部屋の板壁には何やら墨書きが薄ら見え
る。赤外線カメラで撮影するとハッキリ見えてきた。
ここに一週間籠もり精進固めをするそうなので、その時の落書きだろうか?
話を聞いているうちに獅子舞の子供達が戻って来た。オリエンテーリングのゴールのような
晴れやかな顔で戻って来る。子供達は、お駄賃を戴いて解散である。
さて、待ちに待った獅子頭検分である。
まず獅子頭の裏に彫り込んだ記名があった。
「村上大町 工治平 」村上は新潟県の村上市 大町は市役所のある町で周りには
大工町、細工町、長井町とか獅子頭にまつわるような町名が多い。
拡大して調べると墨書きだったものを、後で誰かが彫り込んだと思われる。
獅子頭は写真の様に赤い獅子頭で鼻と目が異常に近い表情だ。タテガミは無く薄く彫り込まれ
軽量化重視されている。軸の中央部分が細くなっている事に気づく。
目には銅板が嵌め込まれ、耳も独特な形で縁に黒い漆で特徴的な模様が見られた。
獅子頭を被り、歯で噛んで固定して舞う太々神楽の獅子頭だ。
聞いてみるとやはり以前は歯で軸を噛んでいたという。
赤外線カメラで見てみると舌の両側にうっすら文字が見える様な気がするが定かでない。
笛も以前は存在していて吹かないまま持たされたという話も出てきた。
祭りの詳しい資料を見て貰いたいと真っ黒い箱を見せてもらった。
中には、昭和から大正時代までの祭りの金銭明細帳が入っていた。
箱の蓋を渡邊氏はマジマジと凝視し始めた。なんと超能力で解読し始めたのだ!!
普通の人には見えない文字を長年の修行で得た霊力だろうか?
「明治三十年 三寶荒神神社祭禮付帳簿 坂野勇太郎」
赤外線カメラで撮影してみたが大体合っているので再度驚く!
さらに、帳簿には昭和22年まで神楽を依頼して代金を支払った記録があった。
また、太鼓の損料とあり借用した記録もあるので例祭で神楽の獅子舞いがあったのだ。
昭和23年からは、理由は不明だが、その項目が無くなりプロの神楽師達から、途絶えた
か地域の人に変わったのかも知れない。丁度戦争の終盤の頃で情勢も混乱していたのだろう。
その後、子供の獅子舞いとして復活し現在に至ったのだろうと推測する。
獅子頭の作者に付いては、別当の大學院の村上からの由来も関係している話もあり
これから調査を行う。
村上の匠と言えば有磯周斎が有名で、白鷹の瑞龍院の彫刻等手掛けている記録があり
こちらも調査中だ。
謎が謎を呼びまったくキリが無い!
追記
昭和22年で途絶えた神楽は、ここから2.5km程北西の上新田にあった熱田系の獅子神楽があ
ったようだ。2人立ちの獅子舞で「獅子舞」「あほう舞」「ひょっとこ」「やたて万歳」
「和唐内」などの演目があった。上新田に皇大神社があり「村の若者組が戸毎に回って厄を
払い、金銭を頂戴する。二人で獅子を被り、家中を歩き回り、笛、太鼓、歌を歌い家中すみず
みまで歩き回り、病気、不幸、などすべての厄を払う。大正年間(1912~26)、一戸一銭、
五銭、十銭位もらったという」とある。
江戸中期から、村に来る太神楽の芸を習い覚えた村の若者達が、神社の祭礼やお盆に獅子舞を
奉納してきた。だが、昭和になると廃れ、代わりに職業として神楽舞を演じるものが村々を廻るようになった。米沢地方ではこれらの者を「神楽ぶち」と言った。
上新田には昭和初期、一人の「神楽ぶち」が住みつき、西光寺の境内で年一回、市外から「神楽ぶち」たちが来て神楽や曲芸の公演を行っていた。しかし、戦後になって数年を経ずして廃れたという。
山形民俗第29号 置賜の「獅子神楽とその絵馬について」渡邊敏和氏著
この話から三宝荒神神社に呼ばれた神楽は上新田の獅子神楽だったのではないかと考える。
ちょっと謎は解決した。
桜もチラホラ咲き出したので獅子宿から脱出出来ない。
祭り開始時間が迫りヤキモキしてきたが、詳しいオジサンこと渡邊氏に情報を流したので今頃
は向かっているはずだ。
神社に到着すると、子供達の獅子舞いは既に出発していた。
笛も太鼓も無いので心躍る獅子舞の気配がない。
追いかけると直ぐに発見し、同行させて戴く。
幼稚園年少位のキカナイお兄ちゃんがチョロチョロ道路を渡り傍若無人に振る舞うので
若いお母さんがイライラし始めてきた。叱咤激励どころではない。
我が家では娘三人なので、こういう場面に対峙した経験が無いので微笑ましいのだがハラハラ
して獅子舞どころではない。
こちらの獅子舞の型は単純だ。一軒一軒訪門し玄関先で「獅子舞が来ました~」と子供達が叫
び、ご祝儀を改修して回ると行った形である。子供が多かった頃は、幕も大きく中に10人位
入り獅子頭を触る事も出来なかったそうだ。
獅子舞から神社に戻ると、渡邊氏が拝殿にまさに張り付いて十畳ほどの拝殿で八名程の氏子の
方々と歓談していた。
別当の大學院の住職も帰られ獅子舞いの到着を待つまでの祝宴である。
獅子舞いは二時に出発し四時に戻って来る予定で、長手地区と川西地区を周る。以前長手は弓
町と呼ばれたと古風な名前だったのに勿体ないと感じたが何か理由があるのだろう。
神社の拝殿は以前湯殿山信仰の行屋だったという。部屋の板壁には何やら墨書きが薄ら見え
る。赤外線カメラで撮影するとハッキリ見えてきた。
ここに一週間籠もり精進固めをするそうなので、その時の落書きだろうか?
話を聞いているうちに獅子舞の子供達が戻って来た。オリエンテーリングのゴールのような
晴れやかな顔で戻って来る。子供達は、お駄賃を戴いて解散である。
さて、待ちに待った獅子頭検分である。
まず獅子頭の裏に彫り込んだ記名があった。
「村上大町 工治平 」村上は新潟県の村上市 大町は市役所のある町で周りには
大工町、細工町、長井町とか獅子頭にまつわるような町名が多い。
拡大して調べると墨書きだったものを、後で誰かが彫り込んだと思われる。
獅子頭は写真の様に赤い獅子頭で鼻と目が異常に近い表情だ。タテガミは無く薄く彫り込まれ
軽量化重視されている。軸の中央部分が細くなっている事に気づく。
目には銅板が嵌め込まれ、耳も独特な形で縁に黒い漆で特徴的な模様が見られた。
獅子頭を被り、歯で噛んで固定して舞う太々神楽の獅子頭だ。
聞いてみるとやはり以前は歯で軸を噛んでいたという。
赤外線カメラで見てみると舌の両側にうっすら文字が見える様な気がするが定かでない。
笛も以前は存在していて吹かないまま持たされたという話も出てきた。
祭りの詳しい資料を見て貰いたいと真っ黒い箱を見せてもらった。
中には、昭和から大正時代までの祭りの金銭明細帳が入っていた。
箱の蓋を渡邊氏はマジマジと凝視し始めた。なんと超能力で解読し始めたのだ!!
普通の人には見えない文字を長年の修行で得た霊力だろうか?
「明治三十年 三寶荒神神社祭禮付帳簿 坂野勇太郎」
赤外線カメラで撮影してみたが大体合っているので再度驚く!
さらに、帳簿には昭和22年まで神楽を依頼して代金を支払った記録があった。
また、太鼓の損料とあり借用した記録もあるので例祭で神楽の獅子舞いがあったのだ。
昭和23年からは、理由は不明だが、その項目が無くなりプロの神楽師達から、途絶えた
か地域の人に変わったのかも知れない。丁度戦争の終盤の頃で情勢も混乱していたのだろう。
その後、子供の獅子舞いとして復活し現在に至ったのだろうと推測する。
獅子頭の作者に付いては、別当の大學院の村上からの由来も関係している話もあり
これから調査を行う。
村上の匠と言えば有磯周斎が有名で、白鷹の瑞龍院の彫刻等手掛けている記録があり
こちらも調査中だ。
謎が謎を呼びまったくキリが無い!
追記
昭和22年で途絶えた神楽は、ここから2.5km程北西の上新田にあった熱田系の獅子神楽があ
ったようだ。2人立ちの獅子舞で「獅子舞」「あほう舞」「ひょっとこ」「やたて万歳」
「和唐内」などの演目があった。上新田に皇大神社があり「村の若者組が戸毎に回って厄を
払い、金銭を頂戴する。二人で獅子を被り、家中を歩き回り、笛、太鼓、歌を歌い家中すみず
みまで歩き回り、病気、不幸、などすべての厄を払う。大正年間(1912~26)、一戸一銭、
五銭、十銭位もらったという」とある。
江戸中期から、村に来る太神楽の芸を習い覚えた村の若者達が、神社の祭礼やお盆に獅子舞を
奉納してきた。だが、昭和になると廃れ、代わりに職業として神楽舞を演じるものが村々を廻るようになった。米沢地方ではこれらの者を「神楽ぶち」と言った。
上新田には昭和初期、一人の「神楽ぶち」が住みつき、西光寺の境内で年一回、市外から「神楽ぶち」たちが来て神楽や曲芸の公演を行っていた。しかし、戦後になって数年を経ずして廃れたという。
山形民俗第29号 置賜の「獅子神楽とその絵馬について」渡邊敏和氏著
この話から三宝荒神神社に呼ばれた神楽は上新田の獅子神楽だったのではないかと考える。
ちょっと謎は解決した。
米沢で獅子舞い始まる
米沢市の長手、三宝荒神神社の例祭が四月九日(土曜)午後から行われる。
これからである・・・。
天気も良さそうなので、どんな獅子頭が現れるか楽しみなのだ。
昨日場所とお祭りの日を確認に神社探しに出掛けた。
見逃さないぞという執念だ。
途中高畠の見知らぬ神社でのぼり旗が上がっていたので、春の例祭シーズンに入ったのかも知れな
い。
ようやく神社を探し出し、境内に訪れると雪囲いがまだ解かれておらず、明日例祭の情報は
外れたのかと戻る途中に現地の方を発見し情報収集。
草むしり作業中のお婆さんに尋ねると曖昧でお嫁さんに確認してもらうと明日であった。
そのお婆ちゃんの子供の頃、お祭りに参加して練り歩いた話から、歴史は深そうだ。
子供の獅子舞いなのだそうだが、今は地区でたった一人だそうで大人も加わり行っているとの
事だった。
深刻な少子化人口減で祭りの獅子舞いの危機だそうだ。
さて、桜も咲き出したので色々忙しくなりそうで取材に行けるか心配な所だ。
これからである・・・。
天気も良さそうなので、どんな獅子頭が現れるか楽しみなのだ。
昨日場所とお祭りの日を確認に神社探しに出掛けた。
見逃さないぞという執念だ。
途中高畠の見知らぬ神社でのぼり旗が上がっていたので、春の例祭シーズンに入ったのかも知れな
い。
ようやく神社を探し出し、境内に訪れると雪囲いがまだ解かれておらず、明日例祭の情報は
外れたのかと戻る途中に現地の方を発見し情報収集。
草むしり作業中のお婆さんに尋ねると曖昧でお嫁さんに確認してもらうと明日であった。
そのお婆ちゃんの子供の頃、お祭りに参加して練り歩いた話から、歴史は深そうだ。
子供の獅子舞いなのだそうだが、今は地区でたった一人だそうで大人も加わり行っているとの
事だった。
深刻な少子化人口減で祭りの獅子舞いの危機だそうだ。
さて、桜も咲き出したので色々忙しくなりそうで取材に行けるか心配な所だ。
梓山に獅子探し・・
春の快晴につられて米沢市万世町梓山に取材に出掛けた。
目的は梅津弥兵衛作の獅子頭一対である。
梓山・・「あずさやま」と書いて「ずさやま」と呼び「あ」を略して呼ぶ所が面白い。
パソコンで変換する時いちいち「あ」を消さなければならない伝統とは少し不便だ。
以前、梓山獅子踊りを取材しに訪れたが、福島に向かう途中でここには何か有るなという予感
がしていたのだが予感は当たった。
ナビで調べると13号線沿いに有るので場所は探しは楽勝と見込んでいた。
やはり直ぐ見つかったが、余りに廃墟化してちょっと気後れしてしまった。
では、まず周辺を見て廻ろうと南進し法将寺があった。
こちらは獅子踊の会場であり獅子頭の保管庫もある。
ほれぼれする達筆な文字の看板に目が吸い寄せられた。
もう一箇所は松林寺(しょうりんじ)である。
獅子踊は七月の第一土曜にはこちらの梓神社で行われ、お盆の時は法将寺と松林寺で行われる
そうだ。
さて、いよいよ飛び込み取材交渉突撃に個人宅に向かう。
玄関先のトショリのワンコを発見して警戒するが、こちらには一向に気がつかない。
トショリすぎて番犬も寛大になったのだろうか。ただ車庫のシャッターには反応して
ちゃんと吼える事が出来た。
名刺を差し出し、おそるおそる、かしこまって取材交渉をしてみると、あっけない程快諾して
いただいた。どーぞどーぞと案内してもらい獅子頭とご対面だ。
やはり見事な梅津弥兵衛の獅子頭一対だ。
白いタテガミが煤けて黒く、バリバリで漆も艶は失い劣化しているが素晴らしい作である。
奉納は明治23年で、126年以来あまり手付かずで、そのままの状態なのでないだろうか?
漆の経年劣化を知る貴重な状態の獅子頭でもある。
ヤクの毛の鼻ヒゲは抜け落ちるが、タテガミは絡み付いてなのか比較的残存している。
金箔も触らなくても剥げ落ちるようだ。漆は紫外線に弱いらしいので日の当った場所は劣化し
やすい。獅子頭の大きい方の耳の下のコブの多さに気が付く。
普通多くても六個だが、こちらは七個もあり珍しい。彫りや塗りに大変手間のかかる場所であ
り渾身の作品だ。
この一対の獅子頭には奉納札があり、明確な記録が残っていてありありがたい。
当時の神主は大乗寺廣観、上杉神社の神主である。
奉納は小浦イシ 梅津藤弥(獅子頭所蔵のお宅のご先祖)
宮町(長井の宮村)梅津弥兵衛(作者)有志総代 後藤伊兵衛 遠藤文右エ門
梅津弥兵衛のお宅は長井市大町で、近くに後藤、遠藤肉屋さんがあって何か関係有りではない
かと睨んでいる。
奉献白山神社廣前獅子像二体有志諸家内安全身体固堅
裏には明治廿三年一月十八日 祭典日 三月十五日
六月十五日
十二月十五日 とある。
獅子頭の安置している床の間の前には細長い見慣れない形の太鼓があるが、太鼓や台は
わが町清水町の古い太鼓似ているので、長井で太鼓製作をしている川崎和助氏のご先祖か?
さて獅子頭は雄雌の獅子とされ一方が小さめで、長井では雌雄の形で奉納される慣習はあまり
無い。
獅子頭所蔵の梅津家当主の話では梅津藤弥氏が神主の資格を取った事、梅津家の山に石切場が
有った事、所蔵の家と獅子制作者が梅津である事、奉納した小浦イシの小浦姓や有志総代の
後藤と遠藤氏の事などを手がかりに一対の獅子頭の奉納について調べてみたい。
取材をしてみて思うのだが、「獅子頭を拝見したい」と唐突に訪れた客に対して何て
親切なのだろうと思う・・・ありがたいことである。
目的は梅津弥兵衛作の獅子頭一対である。
梓山・・「あずさやま」と書いて「ずさやま」と呼び「あ」を略して呼ぶ所が面白い。
パソコンで変換する時いちいち「あ」を消さなければならない伝統とは少し不便だ。
以前、梓山獅子踊りを取材しに訪れたが、福島に向かう途中でここには何か有るなという予感
がしていたのだが予感は当たった。
ナビで調べると13号線沿いに有るので場所は探しは楽勝と見込んでいた。
やはり直ぐ見つかったが、余りに廃墟化してちょっと気後れしてしまった。
では、まず周辺を見て廻ろうと南進し法将寺があった。
こちらは獅子踊の会場であり獅子頭の保管庫もある。
ほれぼれする達筆な文字の看板に目が吸い寄せられた。
もう一箇所は松林寺(しょうりんじ)である。
獅子踊は七月の第一土曜にはこちらの梓神社で行われ、お盆の時は法将寺と松林寺で行われる
そうだ。
さて、いよいよ飛び込み取材交渉突撃に個人宅に向かう。
玄関先のトショリのワンコを発見して警戒するが、こちらには一向に気がつかない。
トショリすぎて番犬も寛大になったのだろうか。ただ車庫のシャッターには反応して
ちゃんと吼える事が出来た。
名刺を差し出し、おそるおそる、かしこまって取材交渉をしてみると、あっけない程快諾して
いただいた。どーぞどーぞと案内してもらい獅子頭とご対面だ。
やはり見事な梅津弥兵衛の獅子頭一対だ。
白いタテガミが煤けて黒く、バリバリで漆も艶は失い劣化しているが素晴らしい作である。
奉納は明治23年で、126年以来あまり手付かずで、そのままの状態なのでないだろうか?
漆の経年劣化を知る貴重な状態の獅子頭でもある。
ヤクの毛の鼻ヒゲは抜け落ちるが、タテガミは絡み付いてなのか比較的残存している。
金箔も触らなくても剥げ落ちるようだ。漆は紫外線に弱いらしいので日の当った場所は劣化し
やすい。獅子頭の大きい方の耳の下のコブの多さに気が付く。
普通多くても六個だが、こちらは七個もあり珍しい。彫りや塗りに大変手間のかかる場所であ
り渾身の作品だ。
この一対の獅子頭には奉納札があり、明確な記録が残っていてありありがたい。
当時の神主は大乗寺廣観、上杉神社の神主である。
奉納は小浦イシ 梅津藤弥(獅子頭所蔵のお宅のご先祖)
宮町(長井の宮村)梅津弥兵衛(作者)有志総代 後藤伊兵衛 遠藤文右エ門
梅津弥兵衛のお宅は長井市大町で、近くに後藤、遠藤肉屋さんがあって何か関係有りではない
かと睨んでいる。
奉献白山神社廣前獅子像二体有志諸家内安全身体固堅
裏には明治廿三年一月十八日 祭典日 三月十五日
六月十五日
十二月十五日 とある。
獅子頭の安置している床の間の前には細長い見慣れない形の太鼓があるが、太鼓や台は
わが町清水町の古い太鼓似ているので、長井で太鼓製作をしている川崎和助氏のご先祖か?
さて獅子頭は雄雌の獅子とされ一方が小さめで、長井では雌雄の形で奉納される慣習はあまり
無い。
獅子頭所蔵の梅津家当主の話では梅津藤弥氏が神主の資格を取った事、梅津家の山に石切場が
有った事、所蔵の家と獅子制作者が梅津である事、奉納した小浦イシの小浦姓や有志総代の
後藤と遠藤氏の事などを手がかりに一対の獅子頭の奉納について調べてみたい。
取材をしてみて思うのだが、「獅子頭を拝見したい」と唐突に訪れた客に対して何て
親切なのだろうと思う・・・ありがたいことである。
亨保16年の獅子頭
米沢市川井の羽黒神社に小松の詳しいオジサンと同行した。
こちらの獅子頭を拝見するのだ。
写真で見たお顔が尋常でなく怖いので昨年から楽しみにしていた。
川井地区の羽黒神社は小高い丘のテッペンにあり眺めよく米沢の町並みが一望出来る。
急な階段の横には何故かコンクリート製の滑り台があり、テッペンから滑り落ちる事が
出来るが、ズボンのお尻が心配で勇気がでなかった。
実は昨年近くの浅川の泉養院に獅子頭拝見のお願いに来て、こちらを下見していたのだ。
本日は小松のオジサンにアポを取ってもらい3時に神主さん宅にお邪魔する事をお願い済みだ。
小松のオジサンは置賜民俗学会の会員で、米沢では顔が広い。
写真で見たより想像以上の迫力・・・何と言っても鼻筋の盛り上がるシワが津波のようだ。
漆の塗膜が薄く木地の木目が見える不思議な塗り方で、口や唇にうっすら朱が見える。
噛み締める表情が面白い。前歯が下唇を噛む様な激しい表情だ。
目にはうっすらと金箔が貼られ六㍉位の穴が有る。コレは水晶の玉でも嵌め込まれていた
跡だろうか?
顎の舌が有る部分に、舌が無く記名が彫り込まれているのが貴重である。
享保十六年(西暦1731年)今から285年前、米府(米沢)貝沼宣智の作とある。
その他、棟札風の書き方を残していた。
昨年此の獅子頭の写真を見たとき、以前制作した福島三春町の田村大元神社の獅子頭と
似ていると感じた・・いつもの獅子彫りの勘である。
また、記名を彫り込んでいる獅子頭は珍しく、私の知っている獅子頭では唯一白鷹町の浅立
諏訪神社の獅子頭である。すぐ諏訪神社の記名を調べてみた。
すると、驚いた事が見えてきた。
記名の文字が似ているのだ!
浅立諏訪の獅子頭は作者不明で宝暦十二年(西暦1763年)のお祭りに獅子渡り
とあるのでそれ以前の制作であろう・・としか分かっていない。
白鷹浅立諏訪神社の獅子頭 宝暦十二年(1763年)以前の作と言われるのだが・・
はたして現在使われている獅子頭と限定できない。
米沢市川井羽黒神社の獅子頭 享保十六年(1731年)
二頭の制作の時代はほとんど同時期と考えられないだろうか?
更に記名の書体の癖は酷似している。
両神社の作者は米沢の貝沼宣智の可能性が見えてきた。
さらに調査を進めることにしよう・・・。
こちらの獅子頭を拝見するのだ。
写真で見たお顔が尋常でなく怖いので昨年から楽しみにしていた。
川井地区の羽黒神社は小高い丘のテッペンにあり眺めよく米沢の町並みが一望出来る。
急な階段の横には何故かコンクリート製の滑り台があり、テッペンから滑り落ちる事が
出来るが、ズボンのお尻が心配で勇気がでなかった。
実は昨年近くの浅川の泉養院に獅子頭拝見のお願いに来て、こちらを下見していたのだ。
本日は小松のオジサンにアポを取ってもらい3時に神主さん宅にお邪魔する事をお願い済みだ。
小松のオジサンは置賜民俗学会の会員で、米沢では顔が広い。
写真で見たより想像以上の迫力・・・何と言っても鼻筋の盛り上がるシワが津波のようだ。
漆の塗膜が薄く木地の木目が見える不思議な塗り方で、口や唇にうっすら朱が見える。
噛み締める表情が面白い。前歯が下唇を噛む様な激しい表情だ。
目にはうっすらと金箔が貼られ六㍉位の穴が有る。コレは水晶の玉でも嵌め込まれていた
跡だろうか?
顎の舌が有る部分に、舌が無く記名が彫り込まれているのが貴重である。
享保十六年(西暦1731年)今から285年前、米府(米沢)貝沼宣智の作とある。
その他、棟札風の書き方を残していた。
昨年此の獅子頭の写真を見たとき、以前制作した福島三春町の田村大元神社の獅子頭と
似ていると感じた・・いつもの獅子彫りの勘である。
また、記名を彫り込んでいる獅子頭は珍しく、私の知っている獅子頭では唯一白鷹町の浅立
諏訪神社の獅子頭である。すぐ諏訪神社の記名を調べてみた。
すると、驚いた事が見えてきた。
記名の文字が似ているのだ!
浅立諏訪の獅子頭は作者不明で宝暦十二年(西暦1763年)のお祭りに獅子渡り
とあるのでそれ以前の制作であろう・・としか分かっていない。
白鷹浅立諏訪神社の獅子頭 宝暦十二年(1763年)以前の作と言われるのだが・・
はたして現在使われている獅子頭と限定できない。
米沢市川井羽黒神社の獅子頭 享保十六年(1731年)
二頭の制作の時代はほとんど同時期と考えられないだろうか?
更に記名の書体の癖は酷似している。
両神社の作者は米沢の貝沼宣智の可能性が見えてきた。
さらに調査を進めることにしよう・・・。