やまがたでの日々の暮らし・自然・風景

やまがたでの日々の暮らし・自然・風景
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先日は寒波で吹雪だったのに、それが過ぎたら今度は雨模様の朝となった。
周囲は鈍重なブルーグレー一色という感じだったので、写真が撮れるかどうかも分らないし、特にズームレンズは不要だろうとして、バッグには入れて来なかった。

でも、ほんの僅かの間だったが、蔵王山系笹谷峠の鞍部がベニバナ色の光に染まった。(日の出時刻 06:36の20分程前)

大きな画像は、毎朝晩の散歩や休日の山野遊びに付き合ってくれる、とても頼りがいのあるパートナーの犬っ子(兄:4歳)です。犬種は、だだの日本犬系雑種。
一昨年は沖縄にも付き合ってくれた。(あのJALのペット会員でもあります。)

もちろん、基本的なシツケは行っている(・・・つもりだ)が、私と犬っ子達との「キズナ」は、<飴とムチ>という関係ではない。いわば、家族同士の信頼関係という感じで、きわめて日本的なのかも知れない。

お利巧で可愛くるしい「洋犬」系も好きだが、私の勝手なイメージだが・・・昔の山村などの庭先に普通に放し飼いされていた様な、飼い犬なのか野良犬なのか一見分らないけど、村のみんなに親しまれている様な、それでいて、飼い主とのキズナがとても深く、優しくて勇猛でもある・・・「地犬」・・・とても言うのだろうか?、そんな犬っ子と、その関係性が、なんとも言えないのだが・・・好きだ。

そういえば、先日、やまがたのお菓子屋さんの「シベール」さんの店頭に、<犬のリード繋ぎ>が設置されてるのに気が付いた。きっと春になったら、犬っ子連れのお客様が来て、屋外のカフェでお茶を飲んだり、ついでに買い物したり・・・と、良い風景が見られるかも知れないなと、なんだか勝手に嬉しくなった。
かなり昔の事でもあるが、横浜元町の商店街の各所にお洒落な「犬の水飲み場」が設置されていて、元々大好きな街のひとつなのだが、さらに好感が増した記憶がある。

この度の寒波も一段落し、今朝は晴れ上がった。田に目を移すと、カモさんの足跡が。雪は、内部はサラサラの乾雪で、表面が薄く凍ってクラストしているせいか、時々、ズボッと足を取られながら歩いた様だ。足の水かきまで残っている。(日の出時刻 06:37の5分前頃)

カモさん達は、昼間は川や沼で休んでいて、日没後に田などに飛来して落穂などを食べるが、このところの雪で田が完全に覆われてしまっているので、餌場を探してトボトボと歩き回ったのだろう。

落ちていた羽から察するに、渡りをする「アオクビ(マガモ)」の方ではなく、渡りをしない留鳥とか地カモと呼ばれる「カルガモ」の方だろう。しかし、大きさはほとんど同じで、一般のカモ類にしては大型の方だ。

ちなみに、現在、当BLOGのヘッダーに使っているカモの画像は、渡りをする「アオクビ(マガモ)」で、けっこう神経質なので、人が近付くとすぐに群れで飛び去ってしまう。拠って、出来るだけ目立たぬ服を着て、手前の芳に隠れる様に身を屈めながら少しづつ前進して、これ以上は無理っという距離まで近付いてシャッターを切ったのだが、その様子を他人が見たら「ヘンなオジサン」に見えただろう。

ところで、カモさん達は飛翔するのが大変上手だ。上昇する時や加速する時には「フィッ、フィッ、フィッ、フィッ、フィッ、フィッ」と金属音的な音をたてて、あっと言う間に時速80km程に達する。そんなカモさん達だが、歩くのはあまり上手ではなく、その姿はまるで「オムツを着けたヨチヨチ歩きの赤ちゃん」みたいで、けっこうメンゴい(カワイイ)。

カレンダー的には立春をとっくに過ぎたし、渡りをするカモやハクチョウなどは、越冬中に溜まった余計な脂肪を徐々に落としつつ、そろそろ帰り仕度を始める頃だろう。

妙に暖かい日が続き、山形市などは雪も消えてしまっていたのに、季節の廻りってそれなりに帳尻を合わせるもので、雪・雪・雪である。

今日は週末なので犬っ子達との山行きを楽しみにしていたのだが、これじゃ、いくらカンジキを履いてラッセルしてもなかなか前に進まないので、中止した。
拠って、画像は、山ではなく、家の庭先。。。(日の出時刻 06:39の10分後頃)

昨朝の<太陽柱>をキッカケに、話は宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」に飛んだが、脳みそは、引き続き宮沢賢治について想像をめぐらしている様だ。
同時に、私の世代だと松本零士の「銀河鉄道999」のイメージとどうしてもオーバーラップして来て、脳みそン中が上手く整理出来ないのがやや難点なのだが・・・。(泣)

日の出時刻 06:40の6分後頃に、蔵王山系雁戸山上空に<太陽柱>が上った。
非常に稀な大気光象で、Wikipediaに拠ると、宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」に登場する「天気輪の柱」のモデルになったという説もある、との事。ま、長生きはしてみるもんだ。(笑)

<太陽柱>は「sun pillar」とも言われ、氷晶が関係するらしい。今朝は、平地でも−7℃程度まで下がった様だし、風も弱かったので、雁戸上空であれば当然ながらダイヤモンドダスト状態だったのだろう。

そういえば、もう20年も前の話になるが、一度だけ<金色のダイヤモンドダスト>に囲まれた経験がある。

場所は、蔵王山系坊平(現:蔵王ライザ)の「ぶな平」。
時刻は、2月下旬か3月初旬の夕方4時近く。
気象条件は、北西の弱い風。晴れ。西の空はオレンジ色の夕焼け状態。
気温は、不明だが、ダイヤモンドダストが出来ると言われる−10℃以下。

要は、夕焼けの強いオレンジ色の光がダイヤモンドダストに当って金色に輝いたのだが、周囲360度、まるで金粉がキラキラと舞っている中をスキーで滑り降りるっ、という感じだった。

スクールを終えたインストラクター達がぼちぼちと集まって来て自主練習をする時刻だったのだが、コブを思い切りジャンプしては、その金色のダイヤモンドに吸い込まれていく後ろ姿が、涙が出るほど美しく幻想的だったのを記憶している。

昨日、打合せで行ったホテルのロビーに、沢山の啓翁桜(ケイオウザクラ)が飾られていた。山形名産の、冬に咲く(咲かす?)桜の花という事で有名なので特にコメントは不要と思われるが、たまには華やかな画像も良いかなぁという事で。。。

さて、今朝も気温が低いせいか、雪雲からは割と尖った結晶の雪がハラハラと。やはり犬っ子達は雪が大好きの様で、足跡がなんとなく遊んでますね。(日の出時刻 06:41頃)

ところで、県内ワイナリー各社さんとのフルーツワインに関する研究会があるが、その中で、フルーツやその果汁についても、やはり「熟成させた方が美味しい」という話があり、改めて興味をひかれた。

一般には「フルーツやその果汁は新鮮なほど美味しい」という事があると思うが、それを単純に受け取ると「時間が経つほど不味くなる」という事になってしまう。しかし、そこには「果実というのは、熟してはじめて美味しくなるものである。」という基本的な事実が抜け落ちてしまっているのである。

これは、例えば、一般消費財としての工業製品であれば、新品の状態が価値が一番高く、時間経過や使用経過と共に、急速に価値が下がっていく・・・というのが、基本常識としてあると思うが、その<モノサシ>をそのまま使うからであろう。

フランス語で<熟成>の事を「フェザンタージュ」というが、その語源は、ジビエ料理(野鳥獣料理)に使われる鳥の雉(キジ)=>(仏:フェザン)にあると聞く。雉は、一週間ほど冬の軒下に吊るして<熟成>させてから料理して食するのが一番美味しいとされている。

私も料理が嫌いではない方なので、雉などが授かった際には、軒下ならぬ冷蔵庫で最低一週間はガマンする事にしている。

・・・「モノサシを振り回すと、周りが迷惑する。」というコトワザを思い出した。

雪のため放射冷却が抑えられて、晴天の昨朝よりも冷えは少ない感じだ。

冬の「さくらんぼハウス」は、訪れる人も鳥も虫もなく、屋根なしで鉄パイプ骨組みだけで、ちと寂しい。(日の出時刻 06:42の20分前頃)

おそらく私自身も含まれる事だが、東北(特に裏日本)の人は「口も重く」「表情も乏しい」などという事をよく聞く。これは、人を相手に生きてきた歴史的時間よりも、山林や田畑を相手に生きてきた歴史的時間の方が、圧倒的に大きいからだとも言われている。

この「さくらんぼハウス」を見ると分ると思うが、これに「揉み手」をしたり、「愛想笑い」をしたり、「お世辞」や「社交辞令」を言っても、仕方ない。

先ずは、黙って春を待つしかない。

この事は、情報社会と言われる現在においても、さらには未来においても、当地の特性としてとても重要なポイントだろうと思っているので、後日、加筆を続けたいと思っている。

今朝は晴天となり冷えた。−6℃程だろうか? 風も無く、また夜明け前なので氷霧が低く溜まっている。そのお陰で市街地の建物などが隠されて、景観的には良い感じ。(日の出時刻 06:43の25分前頃、蔵王山系竜山)

首都圏なども冷えて雪が降ったそうな。

そういえば、息子達夫婦は今春からオシゴトでのアメリカ駐在を決め込み、嫁さんの方が一足先に発ったが、駐在先のニューメキシコ州は寒波のため昨日辺りは−16℃だったそうだ。冬の蔵王山頂近くでならかなりの実感を伴って分るが、アメリカ南西部の砂漠での−16℃というのは全く想像がつかない。今朝の様な残月を見上げて、コヨーテでも遠吠えするんだろうか?
(同時刻の残月:月齢17)

想像がつかない事は、それ以上は・・・分らない。

ま、先住民ナバホ族などの手作りウールブランケットにくるまって寝るんだろうかとちょっと心配してたら、家はセントラル冷暖房なので心配後無用との事。なんか、やっぱアメリカらしいなと。

・・・LOHASな私は、セールで買った石油ファンヒーターの「ひかえめ運転」と「ウォームビズ」で日々精進致します。これも地球と後世のためかと。。。はい。

さてさて、犬っ子達との散歩途中で見つけた、まっサラのボルトネジ。きっと、誰かが、落し物かなんかを拾って、道端の石の上に立てて置いたんだろう。(日の出時刻 06:44の15分後頃)

ま、色んな人がいるんで一概には言えないが、只の道端の石(自然石)の上に、ピカピカのボルトが、こうもワザとらしく置かれていると、僅かながらも、なんだか<触れてはならないモノ>様な、云わば「畏怖の念」の様なものを感じるから、不思議だ。

20年程前の事だが、道端で拾って来た小さな石コロに、紐を十字に結わえて、デスクの上に置いといた事があった。書類や資料が散らない様に「文鎮」代わりにしたりして。

実は、これを置いておくと、書類等がなかなか散らからないから不思議だ。他のモノ(雑誌とかホッチキスなど)では、こうは行かない。

お客様などからも珍しがられて、「これ、ナンですか?」とよく聞かれたので、「石コロを拾って来て、文鎮代わりにしてるんですぅ。」と正直に答えた。
でも、何かもっと「意味」的なものを期待している人には、こんなお答えをした。神性が宿っている様な大きな岩や珍しい石、また老木や森などに、縄や紐を結わえて(要はシメ縄とか縄張り)、「結界(ケッカイ:例えばカミの世界と現実の世界等とのイワユル境目を表すモノ)」とするらしいですよね。

私達には、「アニミズムみたいな感覚」というか、そういう「意識下の残像」とでもいうか・・・が、けっこう深いトコにあり、世代や歴史を超えながら更には後世へと、それなりに継承されている様だ。

このところの暖かさで、山形市周辺の雪がなくなってしまい少し寂しい気がしていたが、山際の方では雨が雪に変わり、今朝は束の間の穏やかな雪景色が見られた。でも、もう春の兆しも。(日の出時刻06:46の5分後頃)

以前(2009.12.14)に、体内時計ならぬ体内季節感とか、近代俳句の季語と当地で実感する季節感のズレ・・・云々という事を書いた。

近代俳句の季語と実際の季節感がドンピシャに合うのは、四国の松山だと聞く。それは、彼の正岡子規の活動拠点だった事に加えて、後の近代的な教育システムにより、全国一律に波及した事に拠るところが大きいと聞いた。

その全国一律というのが、いろんなズレにつながる。

四国の松山ならばともかくも、当地やまがたでは、まだまだ冬の最中の新暦1月30日に「桜」だとか「菜の花」とか言われても、単に言葉として理解も出来るし、頭ン中のイメージとしてもとりあえずは浮かぶ・・・が、実は春はまだ遠すぎて「からだいっぱいの喜び」的には、どうしても感じられない。「からだいっぱいの喜び」的に感じて、そして「溢れ出す様に表出したもの」でなければ、やはりホンモノではない気がする。

いっいや、仮に、句や和歌、タイトルコピーなどを「言語系脳みそデータベースを捏ね繰って何か出せ!」と言われれば、それなりに出せなくは無いのかも知れんが、それは、何か…単純にテクニックに依存した作為性バレバレのものになりがちだし(オシゴト界ならば致し方無いのかも・・・)。

ところで、現在においての季語とか季節感の中心地は、やはり首都圏だと思う。

そこでは、季節感をキーにした膨大な量のコマーシャルテキストやイメージが生み出され、そしてマスコミのみならず、ネットや店舗、一般雑誌やフリーマガジンと言った各メディアで配信され、消費され続けているからで、この現実も、現代の大きな文化活動であり潮流だと言える。しかも、その表出タイミングは、新暦よりも更に1ヶ月以上も前倒しである。そして、その仕込みや準備時期は、もっともっと前倒しとなる。(あ、そうか。だから忙しいんだぁ!)

大都市は、自然の脅威というか不確実性を排除する事によって成立しているが、同時に、季節感も排除する方向に向かうものである。しかしながら、そこに住むヒトは自然の一部なので、自ずと自然を欲してしまう。そこで、街路樹や緑地公園を整備したり、ペットを飼ったり、ベランダで野菜を育てたり、観葉植物を配置したりして、作為的に自然を取り込む・・・事で、バランスを保っているからだろう。そして、作為的であるからこそ、非常にデザイン的匂いがある。

仮に、都市が、自然というものをデザインしつつ取り込む事を一切止めてしまったら、どんな世界になるだろうか???きっと、例えば、泳ぎ続けないと死んでしまうマグロやサメの様に、「デザインして、消費し続ける」必要があるんだろうな。。。

翻って当地では、首都圏よりもほぼ1ヶ月+α遅く春を迎え、そして、一ヶ月+α早く秋を迎える。それに加え、けっこうバードな夏と、ディープな冬がある。しかも、自然を作為的に取り込むというよりも、自然の方が容赦なく入り込んでくる。測定や統計をとった訳ではないが、緑を植える事に費やす仕事量よりも、緑を排除する(下刈りや草取り)仕事量の方が、物理的に大きいと思う。

ま、そんなこんなで、体内季節感のズレや差異が、正岡子規以降未だに、或る時は喜劇的に・或る時は悲劇的に、いろいろと作用する様である。

こんな歌を思い出した。

「耳澄まし 心さやいで待つ春に ももはな咲かむ 夷(イ)ナの國にも」(詠み人知らず)

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