被災地より
津波に流され公民館の屋根に打ち上げられた、観光バス。 私の実家は石巻市の雄勝町(おがつちょう)です。数年前に石巻市に合併吸収したので、所在地はどちらかというと市街から相当離れた海沿いの町となります。災害発生後よくテレビで映像が流れている南三陸町の南に位置するリアス式海岸の一角で、人口は5000人弱です。 地震発生後6日目の3月16日(水)米沢―雄勝間を往復できるガソリンを確保して、実家へむかいました。通常アクセスしていた主道路は津波による橋や道路の崩壊によって通行止めとなっているため、緊急時に解放される、予備道路(雄勝峠:冬期間閉鎖で石巻市街から1時間はかかる)で現地にむかいました。 峠を越えて、町を見下ろす高台に着きましたが、想像以上の被害の光景に言葉も出ませんでした。まさに「町1つ津波に丸呑みされた」状態で、民家のほとんどが波に呑まれそのまま海に引き込まれていったような感じでした。 幸いにも私の両親は難を逃れ、それぞれの避難所で再会することができました。 雄勝町はこれまでにチリ津波や宮城県沖地震時の津波などでの被害を経験しており、地震より津波の警戒意識が強く、それに対する対策や訓練など町民の意識は他の町よりも高いと思います。 私も親には、 『地震が来たらすぐ山に登れ!』 とよく言われていました。 しかし、今回の津波は町民の予想をはるかに超えるものとなり、犠牲となった人たちの中には、町で最も高い役場や病院の屋上に避難したのですが、20m級の波にさらわれてしまったとの話を聞きました。助かった人たちも目の前で肉親や親類、知人が助けを求めながら流されていく悲惨な光景を目の当たりにし、非常にショックをうけている様子でした。 町を一周し、親類や知人、同級生などの安否を確認しましたが、まだ所在が分からない人たちが多くいるのが現状です。 雄勝町で避難所生活をしている方たちは、設置した対策本部の指示のもと、良好な結束力でまとまった生活をしていました。その様子をうかがうことができて少し安心しました。 我が町に限らず、どこの被災者もその避難生活は長期になることは必至で、日が経つにつれ、更に体力も免疫力も精神力もどんどん衰退していくと思います。 『がんばれ』 という被災者に対しての言葉は気休めにしかならないと思いますが、その思いを常に持ち、その人たちに対して、今我々ができる事を考えてほしいと思います。 『節電節約!』 などの個人個人の行動実施をお願いしたいと思います。 動画こちらから 町の中心地帯は、ほとんど壊滅状態。 民家はすべて流された。 母校の雄勝中学校は、屋上まで波が押し寄せた。 電信柱の上部まで、損壊した家屋の一部が引っ掛かっている。 災害対策本部のある雄勝町クリーンセンター(3月16日現在) ここに町内の情報と行動指令が集約される。 父親もここで町の人々の救援活動を行っていました。 母校の雄勝小学校。 学校中央の屋上には、流されてきた民家の家屋がのっかっている。 私の実家のあった場所。 場所が特定できないほど損壊している。
2011.03.17