一隅を照らす
国宝とは何物ぞ 2011年11月17日、3クラブ(長井、白鷹、飯豊)合同例会が開かれた。ゲストとして, 松尾芭蕉の『閑さや 岩に沁み入る 蝉の声』で有名な山寺立石寺の住職, 清原浄伝田氏のお話をお聞きする。先生はライオンズクラブ会員として40年間活動を続けられてきた。 テ-マは「己を忘れて他を利する心」 ライオンズクラブの奉仕の精神である。 日本も戦後の大変な時代から高度経済成長を経て科学文明の発達により、物質的にも大変豊かな時代になった。 しかし。人々の心は満たされず、人間としての心の豊かさはどこかに置き去りにされてきたのではないでしょうか。 お話の中に 国宝とは何者ぞ、宝とは道心なり、道心有るの人を名づけて国宝と為す。 故に古人の言く、径寸十枚是れ国宝に非ず、一隅を照らす此れ即ち国宝なりと 国の宝とはなにか、宝とは、道を修めようとするする心である。 この道心を持っている人こそ、社会にとって、なくてはならない国の宝である。 だから中国の昔の人は言った、[直径3センチの宝石10個、それが宝ではない 社会の一隅にいながら、社会を照らす生活をする。自分の職分を忠実にその役割を果たす。その人こそが、なくてはならない国宝の人である]と 故ダグラス・マロックの表現 丘の上の松が無理ならば谷あいの低木になれ だが小川のほとりにある最も美しい低木に 木になれないのなら 灌木になれ 灌木が無理ならば 一握りの草になれ そして広い道に楽しさを添えるのだ カワマスが無理ならばクロマスでよい だが 湖の中で最も生きのよいクロマスに! われらがみな船長にはなれない 水夫になるものもいよう ひとりびとりに何かすることがある 大きな仕事もあれば小さな仕事もあろう そして与えられた務めという点に変わりはない 広い道が無理ならばほんの小路でもよい 太陽が無理ならば 星になれ 成功と失敗を分けるのは大きさではない 何になろうとも最上のものになれ 道心(どうしん)とは 道を修めようとする心、仏教においては仏道を究めようとする心、この道心をもって生活することができる人が国の宝であると ライオンズは財力や暇がある人たちの集まりではない、 物質的な豊かさを提供するだけのボランテァではない。
2013.11.07