おさむ茶マイルーム
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昔話
戦後生まれだが、うっすらと記憶のあるのが3歳くらいからだろうか?当時は、一握りを除いて周りはみんなビンボーだった。
台所が極端に狭かったため、外で七輪に火をおこすのがワタシの学校から帰ってからの日課だったし、水は井戸水をろ過して飲んでいた記憶が残っている。近所で山羊を飼っている家があって、2合瓶を風呂敷に包んで乳を買いに行ったのも覚えている。
日常風景もさることながら、強く思い出すのはやはり「ひもじかった」ことだろうか。腹が減れば、自分で探す以外方法はなかった。収穫の終わったサツマイモ畑に行けば堀忘れの芋を探したり、売り物にならない子供のチンチンほどの芋を集めてはたき火で焼いた。
山には栗、椎などの木の実があった。川にはハヤ、ドジョウ、ナマズ、ズガニなどがいた。
バナナとか卵は病気にならなければ食えなかったし、森永ミルクキャラメルは年1回の遠足の時の楽しみだった。
履ものはゴム靴だったし、着ているものはどこかに必ずツギハギがあった。冬は足袋だった、そして必ずアカギレが出来たし、寒さの厳しい冬はコタツに入るとシモヤケも痒かった。
今よりも昭和20年代は寒かったような気がする。田圃には2〜3センチの氷が張ると、スケート(長靴に装着する)遊びに興じたものである。
小学校は木造校舎で、まだ奉安殿などが残っていた。悪戯が過ぎてよく教師にひっぱたかれた。クラスはずっと52人から54人だった。このころ給食の脱脂粉乳が飲めないと鼻をつまんで飲む同級生がいたが、私的には苦にせず飲んだものだ。
登校すると朝は朝の掃除、授業終了後の掃除、糠袋で黒光りするまで磨きをかけさせられたものである。日教組の3文字は小学生でもよく知っていたし、勤務評定闘争の先鋒をはしる教師は子供心でもわかっていた。昭和34年に少年マガジンとサンデーが創刊された。表紙は相撲の朝汐とジャイアンツの長嶋だった。40円を握り締め、本屋に駆け込んだ記憶が鮮明に思い出されるから、少年心に一大事件だったことがわかる。
2005.10.06:
osamu
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