おさむ茶マイルーム

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 昔、街頭紙芝居というものがあったのを覚えているだろうか?TVが普及する前は、我ら世代にとって何よりも楽しみのひとつでした。自転車で紙芝居のおじさんがあらわれると、自転車の後ろには子供たちの列が出来、競って拍子木を奪い合ったものだ。(拍子木を鳴らす係りをやるとタダで紙芝居が観られたから)
そして路地裏に響きわたる拍子木の音!「カン!カン!カン!紙芝居がはじめるよ〜!」
 この、街頭紙芝居はビジネス!水あめや、お菓子(当時は5円)を買わないと見れない。買えない子は、遠くから紙芝居おじさんの声だけきいていました。
 ただ金色のがい骨マスクのヒーローが活躍する人気の「黄金バット」は、いつもいい所で毎回終わっていたため、翌日も来るように仕掛けられていました。
 今思えば、すべての登場人物の動きや声色、効果音まで実演者が一人でこなさなければならない紙芝居おじさんの、熟練した実演は大変な技術でした。戦後の子ども文化を彩った紙芝居も、いまではほとんど目にすることのできませんが、また観てみたいと思いませんか?


 こうさび〜とコタツから離れがたい毎日ですが、最近湯たんぽが少し前から静かなブームなそうな…かく言う我が家でも湯たんぽ使っております。先だって見た映画「ALWAYS三丁目の夕日」にも小道具として登場していました。
 作業は少し面倒ではありますが、慣れればなんと言うこともありません。なんと言っても電気代が要らないところが経済的ですね。昔はブリキ製のものでしたが、今はプラスチック製のものがほとんどのようです。ブリキ製といえば、ガキのころに火傷を負い今での体に残っています。
 昔は、カバーにバスタオルしか使ってなかったので、ある日バスタオルがはだけて、足が直接湯たんぽに触れて火傷をしてしまったのです。子供ですから熟睡していて気づかなかったのです。
 それ以来、湯たんぽはしばらく使ってなかったけど、数年前から再びプラスチック製の物を使うようになりました。火傷の心配もないし、結構温かいし、ぺットのネコも愛用しています。ん?オイラは猫並みかよ〜。
確かに、火傷防止にプラスチック製のカバーが上部に付いているので、金属製よりは温かくないかもしれないけど、多少冷めても(と言っても、温かさはちゃんと朝まで持続します)、湯たんぽの下に足先を入れれば全然OK、湯たんぽ万歳!


「肝油」・・・懐かしいですねえ。小学生の時、夏休み前に1か月分(缶入り)を学校で申し込んで買いましたね。栄養補給のため、確か一日に何粒と決まっていたと思いますが、甘くて美味しいのでお菓子みたいに、一度に何粒も食べちゃってすぐなくなった記憶あります。私が最初に食べたのはドロップ状、その後ゼリービーンズのように形が変わっていきました、昭和34、5年の頃です。
なつかしいあの味、今も学校で買うのでしょうかね。


 今の高校生の修学旅行事情はどうなってるのでしょうか?韓国やハワイへ行くが学校もあると耳にしますが、ワタクシらの時代は「京都・奈良」の関西方面が定番でした。旅行そのものは、名所旧跡めぐりで退屈なものでしたが、10日間も授業ナシはとても魅力的でした。この集合写真は、確か四国高松栗林公園だったと思います。

「ALWAYS三丁目の夕日」に出てくるような懐かしい写真です。昭和40年ころの山形駅ですが、高校時代毎日通った駅ですから、よけいに懐かしいです。正面から入るとたしか左側が切符売り場、右側が待合室でした。ちょうど下校の電車の待ち時間「ひょっこりひょうたん島」を見て帰るのが常でした。暑い時は、ジュース自動販売機(たぶん粉ジュースだったと思うが…)で、腰に手をあててぐっと一飲みするのが至福の一時でした。当時通っていた列車は、昔も今もデイーゼル機関車ですが、朝夕の通勤通学時間帯は大量輸送可能なSLが走っていた時代でした。
 その後昭和41年駅ビルを併設した駅舎に生まれ代わり、さらに山形新幹線開通を契機に今の駅に改築され、さしずめ「孫」ということになり「昭和も遠くなりにけり」かな。


 最近とんと見かけなくなりましたが、ガキの頃お祭りに行くと、見世物小屋がありました。中でも圧巻は「蛇女の見世物小屋」呼び込みおじさんのダミ声口上に引き込まれ、ちょっと中を覗こうととしても、これがビミョーな隙間でなかなか見えませんでした。仕方なく、怖いもの見たさで吸い込まれるように小屋に入ったものです。
「さあさあ、蛇女だよ〜、親の因果が子に報い、幼い頃から癇が強く獣同様に育ったこの女、料理をした物は一切食べず生きた蛇しか食べません。生まれは山形県は月山の麓、山から山谷から谷へと深山幽谷を駆け回り〜 (中略)〜お代は見てからで結構だよ。さあ、さあ、さあ、さあ入って入って、間もなく始まるよ〜」なんと蛇女は山形出身だったと、子供ながらショック覚えたものでした。
 そのほか電球をかじったり、ローソクを口の中にたらしたり…目の前で繰り広げられる芸に、手で目を囲いながらその隙間から凝らして見入ったものでした。今では絶滅危惧品種の日本のお祭り芸?蛇女も、かなり高齢にさしかかってると思うのですが、まだ日本のどこかで元気に活躍されているのでしょうかね?



 最近のデパ地下がグルメスポットとして脚光を浴び、さらに様々なテナントが軒を連ねるスタイルになっているけど、子どもの頃日曜日にデパートへ行くというのは年に1回か2回の一大イベントで、大食堂で昼ごはんをたべるというのはその中でもクライマックスだったのです
 ショーウインドウのサンプルを見ながら何を食べるか悩むあの一時は、至福の瞬間でした。入り口に向かうとの食券売りのお姉さんがいて、基本的に相席の大きなテーブルに着くと、ウエイトレスのお姉さんが片手で食券を切り、半券を残して行くんですよね。テーブルの中央にはお盆に湯飲みが重ねてあって、セルフで土瓶からお茶を注いで飲む。あの土瓶って懐かしいなぁ。
 ちなみに私の記憶しているご馳走で一番ビッグだったのは“海老フライ”。当時はおそらく輸入の養殖ものなんてなかっただろうから、天然の車海老だったのかな?今考えると親も随分ぜいたくさせてくれたものだと、あらためて感慨ものです。そのデパートの大食堂も次々と消えていく運命とか…また昭和の遺産が消えていくようで、一抹の寂しさを覚えているのはオヤジたちだけでしょうか。



 昭和30年代の東京を書いた映画「ALWAYS3丁目の夕日」のなかで、力道山のTV観戦に近所中の住民が集まって熱中するシーンをPR版で観ましたが、そういえば金曜日夜8時といえば「プロレス中継」のような時代がありました。
 確か当時は、毎週ではなくて、ディズニーランドアワーとの交互放映でしたから、それはそれは2週間が待ち遠しかった記憶残っています。

 当時はもちろん白黒で、プロレスファンのみならず力道山は戦後のヒーローでしたね。60分枠で繰り広げられるバトルは空前絶後&抱腹絶倒ワールド。吉村道明や遠藤幸吉(山形出身ですw)が外人レスラーに反則技でいたぶられ、それを抗議するもレフェリーの沖識名に遮られ、怒り心頭の力道山はレフェリーのTシャツを引きちぎり、悪役外人を空手チョップで滅多切り…だいたいこんな展開でしたね。
 
  他に変り種で日系のグレート東郷という異色のレスラーもいました。 身長は170センチに満たない小柄なキャラで、下駄にド派手なはっぴ風ハーフガウンを纏ってリングに登場、対戦相手やレフェリー、観客にニヤニヤと意味不明な笑みを浮かべ、首をすくめながらリングを回る姿は不気味でした。
 しかし技らしいワザは頭突きぐらいなもので、もっぱらやられ役でしたがFブラッシーの噛み付き流血での老人のショック死事件が社会問題化したこともありました。 それにひきかえ、今のプロレスはショーアップされ大きく様変わりしました。先だっては、レーザーラモンHGや和泉元弥がリングに上がる時代ですから…。

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「♪あはは、うふふ、おほほ…僕らはお笑い三人組」のテーマソングに始まるNHK「お笑い三人組」をご存知だろうか。落語家の三遊亭金馬、講談の一竜斎貞鳳、物真似の江戸屋猫八が、下町を舞台に三人の持味を生かしたギャグとコントで展開するコメディー番組は、当時としてはかなり人気ありましたね。寄席トリオがコメディを演じるところに新鮮さがあったように記憶してます。
 最初はラジオ番組だったらしいが、貞鳳がサラリーマン、小金馬がラーメン屋、猫八がクリーニング屋の設定でしたね。相手役も当初は貞鳳に音羽美子、小金馬に桜京美、猫八に楠木トシエというキャストで、猫八・楠木トシエの恋人同士の「八チャン、タマちゃん、うっー」のギャグのかけあいなど、今思えばどうってことない番組でしたが、NHKらしく家族揃って見るには、健康的で明るい番組でした。
 番組で忘れられないのは、毎回ゲストに歌手が登場し、劇中で物語に関係なく自分の持ち歌を唄うことである。このスタイルは、後の大ヒットコメディ『てなもんや三度笠』に踏襲されていたようです、何となくおかしいといったタレントによる番組だった。今ではほとんど亡くなり、あの世でもコメデイやってるんでしょうか?

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 オヤジ族には、また泣ける映画が11月5日公開です。「ALWAYS三丁目の夕日」という昭和33年、東京の下町を舞台にした人気コミックの映画化ですが、TVの広告スポット見ただけでウルウルきてしまいましたよ。TV洗濯機も、冷蔵庫も…何もなかったあの時代、物はけして豊かでなかったけれど、心は今よりずっと温かく豊か(数倍も)だったように思う。
 劇中でのワンシーン…主人公の家にTVが初めて登場した日、物珍しさに町内中の人がワンサカ押しかける主人がおもむろにブラウン管を覆う緞帳というかカーテンを開けてスイッチオン。白黒画面で力道山の空手チョップがうなる!興奮して声援をおくる町内の人々!当時どこでも見られた昭和の光景じゃないでしょうか。
 暗くなるまで遊びほうけた少年時代、未舗装のボコボコ道路を帰るとき必ず近所のおばさんが「気をつけて帰れや、勉強もしろよ」と声をかけてくれて、今と違う近所の人たち皆があたたかい思いやりや交流がありました。紙芝居、駄菓子屋さん、映画館…10円もあれば遊べた昭和のよき時代、もう帰ることはできませんが、しばし銀幕の世界に泣きにいこうかなと思っています。



 昭和30年代人気のあった『シャボン玉ホリデー』というTV番組を記憶しているでしょうか?日曜日の午後6時30分から30分番組でしたが、6時からの「てなもんや三度笠」に続いてのこの1時間のゴールデンタイムは、何があってもTV前にかじりついておりました。というのも月曜日の学校の話題に必ずのぼるものでしたから、これを見ておかないと会話に入れなかったからです(笑)。
番組は10年くらい続いたでしょうか?植木等の「お呼びでない?こりゃまた失礼しました」谷啓の「ガチョーン!」青島幸男の「青島ダッー!」という名ギャグに、ラストシーンで「スターダスト」のメロディが流れる中ハナ肇とザ・ピーナッツとの掛け合い…毎回同じネタながら笑わせていただきました。
 超マンネリ番組ながら、10年間も続いたとは今では考えられませんが、伝説のバラエティー番組と言ってもいいでしょう。もしタイムスリップが可能であれば、青春の証としてもう一度見てみたい番組の一つです。



 戦後生まれだが、うっすらと記憶のあるのが3歳くらいからだろうか?当時は、一握りを除いて周りはみんなビンボーだった。
 台所が極端に狭かったため、外で七輪に火をおこすのがワタシの学校から帰ってからの日課だったし、水は井戸水をろ過して飲んでいた記憶が残っている。近所で山羊を飼っている家があって、2合瓶を風呂敷に包んで乳を買いに行ったのも覚えている。
 日常風景もさることながら、強く思い出すのはやはり「ひもじかった」ことだろうか。腹が減れば、自分で探す以外方法はなかった。収穫の終わったサツマイモ畑に行けば堀忘れの芋を探したり、売り物にならない子供のチンチンほどの芋を集めてはたき火で焼いた。
 山には栗、椎などの木の実があった。川にはハヤ、ドジョウ、ナマズ、ズガニなどがいた。
バナナとか卵は病気にならなければ食えなかったし、森永ミルクキャラメルは年1回の遠足の時の楽しみだった。
 
 履ものはゴム靴だったし、着ているものはどこかに必ずツギハギがあった。冬は足袋だった、そして必ずアカギレが出来たし、寒さの厳しい冬はコタツに入るとシモヤケも痒かった。
 今よりも昭和20年代は寒かったような気がする。田圃には2〜3センチの氷が張ると、スケート(長靴に装着する)遊びに興じたものである。
 小学校は木造校舎で、まだ奉安殿などが残っていた。悪戯が過ぎてよく教師にひっぱたかれた。クラスはずっと52人から54人だった。このころ給食の脱脂粉乳が飲めないと鼻をつまんで飲む同級生がいたが、私的には苦にせず飲んだものだ。
 登校すると朝は朝の掃除、授業終了後の掃除、糠袋で黒光りするまで磨きをかけさせられたものである。日教組の3文字は小学生でもよく知っていたし、勤務評定闘争の先鋒をはしる教師は子供心でもわかっていた。昭和34年に少年マガジンとサンデーが創刊された。表紙は相撲の朝汐とジャイアンツの長嶋だった。40円を握り締め、本屋に駆け込んだ記憶が鮮明に思い出されるから、少年心に一大事件だったことがわかる。


「ソノシート」というのを皆様はご存知だろうか?ビニールのペラペラしたレコード盤と説明したほうが分かりやすいかな? 日本では昭和30年代に、音の出る雑誌として発売されセンセーショナルな話題をよんだものである。「朝日ソノラマ」というニュース記事を含むさまざまなトピックに、ニュースの現場やオリジナルのテープを収録したもので、その後漫画雑誌にテレビアニメや漫画を題材とした絵本の付録としてソノシートが添付されるようになっ。
また、付録だけではなくテレビアニメの主題歌や物語のダイジェスト、さらには歌謡曲全集まで広範囲に普及していったのであるが、しかしその後、ステレオが普及するとともにいつの間にか姿を消していった。
 ワタクシも、ソノシートが安価だったため卓上プレーヤーでよく聞いたものである。だが、盤がビニール製のため時々レコード針が滑ってしまう難点があった。


 ワタクシたち60年代の男の子の遊びの定番といえば、メンコに尽きるでしょう。今の子供たちはメンコを見たこともないでしょうが、当時男の子が2〜3人集まれば、必ず、このメンコで遊んだものであります。
 オーソドックスなものが角型のやつで、他に大ワンという丸型のものもありました。モノによって硬さと大きさが違い、表面には、当時の人気キャラクターが描かれ、裏面にはナゾナゾが書かれていたり、ちょっとした豆知識のようなものが書かれ、さらには、ジャンケンのグー・チョキ・パーの手の形や、数字の羅列されたものが書かれていたものもありました。
 メンコの一般的な遊び方としては、自分のメンコを相手のメンコにぶつけて、相手のメンコを台から落したり、裏返したりすることが出来たら、自分の勝ちで、そのまま、相手のメンコを貰えるというようなルールで遊んでいました。
 「月光仮面」が放映されていた頃には、我が家には、まだテレビがなく、「月光仮面」は近所のTVあるお宅に図々しくも「スミマセーン、テレビ見して下さ〜い」と言いながら、ドヤドヤと上がり込み、胸をときめかせながら見ていたものであります。
こうした人気番組のキャラクターが写っているメンコは、単に、遊びの道具としてだけでなく、いわゆるブロマイド代わりにコレクター・アイテムとしても重要な役割を果たしていたものでありました。メンコには、色々な細工を施して戦いにも強いメンコに仕立て上げ、得意になっていたものです。
 メンコを強化する手法としては、メンコに油をしみこませて重くすると同時に、裏に紙を貼り付けて補強するというような手法が一般的なものでありました。だが、戦いに負けて、その大切な大切なメンコを他人に取られてしまったときは、2〜3日ショックから立ち直れなかったものです。

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昔、ガキの頃食べた駄菓子を思いつくまま並べてみましたが、おそらく30年代以上生まれにはわからないかな?
1.にっき味の紙  
 幅10Cm縦20Cmぐらいの砂糖紙に、”にっき”味の砂糖で、絵をかいてある。
 これを、食べて、味のなくなった紙を捨てる。合成着色材をふんだんに使っていて、好きだったなぁ。

2.1円あめ  
 1円で買える飴。10円しかおかねをもらえなかったとき、駄菓子やにいくと、10個飴を買える訳ですが、中には50銭というのもありました。

3.黒砂糖の棒  
 これ、最近でも売ってます。このころは、”あてもん”形式で、小さいのから大きいのまでいろいろありました。今のは、ちょっと甘すぎますね

4.粉末ジュース  
 袋にはいった、粉をコップにいれ、水をいれるとジュースになるんです。オレンジやパイングレープなどいっぱい種類がありました。水をいれずに、そのまま、指でとってなめたりもします。すると、舌がその色に染まって、今じゃ人騒がせおきそうなぐらいの合成着色です。有名なのは、渡辺のジュースの素で、お汁粉の素というのもありました。

5.即席らーめん生食い  
 チキンラーメンをお湯もいれずに食べるのは、これ普通。これがおやつとしてできあがったのがベビスターらーめん。せがれも大好物 なんですよ。

6.型抜き
 2Cm四方、薄さ0.5mmぐらいの砂糖と小麦粉を混ぜて固めたような、材料な版。ここに”傘”や”自動車”、”チューリップ”等の絵が書いてある。これをくりぬく。細いところはさすがにむずかしい。針などを駆使してくりぬいていた。これ食べられます。これは、よく紙芝居やさんが子供にあそばせるものとして買わせていた。うまくくりぬくと、せんべいなんかがもらえたよな、たしか。

7.ストローゼリー
 ストローの中に、ゼリーが詰まっている。それをちゅうちゅうと吸って食べるだけの、駄菓子。味の種類は、オレンジ、メロン、ストロベリー、パイナップルぐらいかな。

8.チューブチョコ
 吸い口を噛むと歯にしみました。確か、歯磨きのようなチュウーブに入ってましたね。遠足の際のおやつのメインでした。