第20話 百年後のこの景色を  その1(荒砥駅)

 全線開通100周年を記念して書き始めたこのシリーズ。開通記念日の4月22日には間に合わなかったが、ようやく終点の荒砥駅に到着しました。どうぞご覧ください。

 

    

 大正12年4月22日朝、本間猪吉は三番坂の上にいた。一番列車が鮎貝駅を出て、黒煙を噴き上げながら最上川橋梁をわたって来るのが見えた。町のあちこちから聞こえて来る「万歳、万歳」の歓声を聞きながら、4年前のことを思いだした。本間は荒砥町の出身ではなかったが、11代町長大友惣八に乞われて助役に就任した。しかしながら大友町長が就任後わずか3か月後の大正4年12月27日に急遽辞任すると、臨時代理の職に就き大正6年8月4日には町長職に就くこととなったのである。

 

 その頃の町政の最大の課題は長井線の延伸問題であった。荒砥町における鉄道建設運動は明治44年頃から始まった。軽便鉄道長井線の計画が浮上すると同時に、梨郷から伊佐沢に抜けて荒砥までの実現を目指すものとして陳情活動を展開した。しかし「赤湯から長井まで」という鉄道院の計画は変わらなかったことから、ルートを問わずに荒砥までの延伸を要望することとなった。そして、本間が町長に就任してまもなく、大正6年12月の鉄道会議において、長井荒砥間の延長が大正8年から3か年間に敷設すべく決議されたのである。地元民にとっては10年来の悲願が達成されたとして、歓喜の声で迎えられたものだった。そして大正8年3月、鉄道院告示第2号をもって、新庄建設事務所の所管事務として「長井荒砥間」が加えられることになった。

 

 大正8年4月、いよいよ測量が開始されることになった。がしかし、実際に測量が行われたのは最上川の左岸であった。当初は、これは単に比較のための調査であろうと信じていたが、5月12日、臨時に招集された郡内町村長会で、西置賜郡長清水徳太郎氏から重大な発表がなされた。それは、長井線の延長ルートは最上川の左岸に決定したようだ、というのである。さらに鉄道院の松本建設局長が、「鉄道院の当初の計画では最上川右岸で計画していたが、今回、政治決着により左岸を通ることになった。ついては野川と最上川に2つの橋梁を建設する予算はないので、鮎貝駅を終点として、駅名を荒砥駅とせざるを得ない。」と語ったというのである。清水郡長は「この際、郡内町村一致して鮎貝より右岸の荒砥市街地まで、更に延長の請願をしなければならない。」と言明されたのでした。これを聞いた時は、愕然となった。今までの先人の努力が水泡に帰すと思った。役場に帰ってすぐに、鉄道院総裁への請願書の作成に取り掛かったのだった。

2023.07.10:orada3:[長井線読切りエッセー]