さて5貢では「教義の話」や「神仏習合」の話題が出てきますので、葉山神社の来歴についてまとめておきたいと思います。先日、葉山神社の嶽本宮司に葉山神社に伝わる歴史を教えてもらいました。それによると恵法律師が池から仏像を拾い上げる手伝いをした人は、付近の横源太という人であること。恵法律師が仏像の安置場所について、西山にあった光明寺の宥光法印に相談したこと。恵法律師は宥光法印の説に従い、葉山山頂の景観地を選んで羽黒権現(祭神:保食命)を建立。同時に荒廃著しかった月山権現の御堂も再建したという。恵法律師はその後、葉山のふもとに庵を編んで余生を送り、医王山龍善院と称した。現在の葉山神社宮司の嶽本家の始祖である。(月山権現は恵法律師が山頂に行ったときにはすでに建てられていたことになる。)
光明寺は、天慶2年(939年)玄明法印が初めて開いた寺といわれています。恵法律師が仏像を発見する約450年前のことです。神仏習合(神仏混淆)の時代は葉山の月山大権現の別当を勤め、月山修験大蔵院ともいわれていました。明治元年(1868年)に神仏分離令が発布されると羽黒大権現と月山大権現が「葉山神社」として統一され、羽黒大権現の龍善院が神主となり、以後代々葉山神社を継承することとなった。一方、大蔵院は宥玄の時代に真言宗醍醐派のお寺となり、月光山光明寺大蔵院と改められたといいます。(「ふるさとめぐり致芳(平成9年:致芳地区文化振興会編)」の「光明寺跡」より。)
そして6貢では狐が神から託された使命が明らかになります。「僧を無事に送り出せ、僧に何事があったら置賜全体に罰が当たりかねない。」との言葉は、当時の葉山神社の郡内での信仰の強さを表すものかもしれません。そしてその言葉に従うように、地元では明徳4年以来21年ごとに葉山宮のお建て替えが行われてきたのでした。
【おらだの会】 一部の資料では、神仏分離令において葉山宮に合祀された月山宮を復活させて、葉山宮と月山宮の二つを祀ることになり、立て替えられた社を葉山宮とよんでいる、と記述されています。月山権現が最初に建てられた時期や復活した時期など、まだまだ不確かな点が多く残っていますことをご了承ください。