西大塚駅を出てしばらくすると今泉駅に到着する。宮脇俊三が玉音放送を聞いたことで有名な駅である。かつてこのホームにはキオスクの売店があった。また転車台の跡も残っている。長井線と米坂線は、ここから2キロほど線路を共有した後に旧白川信号場で分岐するが、そこまでが今泉駅の構内扱いとなっている。マニア垂涎のこの区間には、この地方の壮大な政治ドラマがあったのでした。
「長井の奴らはけしからん。人が事情を尽くして協力を要請した事には一顧も与えず、自分の都合の良いことは図々しく訴えて来る。面を洗って出直して来い。」。小林源蔵代議士は、長井町の陳情団に怒声を上げた。事の発端は、大正8年の暮れも押し迫った頃、鉄道敷設法の改正案が新聞に公表されたことにある。すなわち今後12年以内に建設する第一期予定線に、羽越横断鉄道(現米坂線)のうち「今泉坂町線」を指定することが提案されたのである。羽越横断鉄道は明治28年に公布された鉄道敷設法に予定路線に指定されていたのだが、今日まで着工されずに地元の待望久しかったものであった。しかしながらこの報道によって置賜には二つの憤りが生まれることになった。長井町では「起点は長井にすべきだ」との憤懣であり、米沢市では「米沢からの直接線でないのか」という不満である。
もともと横断線は、坂町から小国、中津川を通って米沢に至るルートを予定していた。しかしその後、小松町からの猛運動が展開された結果、小国~手ノ子~小松~米沢となったのである。鉄道省が鉄道会議に提出した案では、米沢坂町線を第一期予定線に昇格させるものであったが、すでに長井線が建設されていたことから二つの路線が並走することとなるため、鉄道会議では今泉・坂町間だけを承認することとなったのである。鉄道省出身で明治45年から衆議院議員となった小林代議士は、鉄道省関係に大きな影響力を持っており、長井線の実現にも貢献した人物であった。しかし地元の米坂線ではそれが認められず、その憤懣を長井町の陳情団にぶつけることになったのであった。