駅から県道までの取付道路は町村で造らねばならなかった。駅から役場までは直線で来たけれど、そこには山口五左エ門氏の住宅があって直線には出来なかった。それで役場入口の道路を拡幅して県道に接続した。停車場道路としては例のない曲がった道路になってしまった。
事情はあったにしても、村当局は村民から非難されたのは当然のことであった。宇右エ門曲り等と悪口を言う人もあったが、当時(佐々木)宇右エ門氏は村議会で絶大な実力者で、この曲がった道路も彼の意向によるものだったとささやかれていた。
道路工事は用地買収等に手間取り、工事が遅れて開通式直前までかかって漸く完成した。その年12月になってからは天気が悪く毎日の雨で砂利は敷いても泥んこ道だった。それでも落成式当日は役場前に芸者踊り等の余興もあり大変な賑わいであった。
致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より(写真も)
【おらだの会】上の写真にある駐在所は明治21年8月1日に成田村下宿東に配置された、と長井市史3巻(昭和57年発行)にある。また日進堂は「大正4年に菓子商を営む」と記録があるとのこと。成田駅開業の数年後、駅前の風景は大きく変貌することになるのですが、それは次回ご紹介します。
日進堂のお菓子が食べたくて千葉から来ましたという方がいました。
こちらからどうぞ ⇒ 木造駅舎がお菓子になった:おらだの会 (samidare.jp)