大正8年4月愈々線路の測量が始められた。ところが測量は1線ではなく3線同時に始められたのである。最も西側は西表の田園の真中を通り、中は現在の線路のところ、それから東側の線は遍照寺東から野川を渡り、塔の越に入り福蔵院の東、片桐氏宅の前から八百刈を突き抜けて窪前から五十川に通ったのだった。東側の線は殆んど桑園だったので測量の障碍になる桑の木は切り払われた。
この3本の線を測量したと言うことは、最も建設費の少なく、地域住民の利用価値の高いところという配慮から比較線とかいって3本の線を検討したのであった。この3線の予定線については、地域住民はどの線を希望するというような積極的な意見もなく鉄道院の決定次第というような空気だった。
致芳郷土資料第三集 沙石集(横山文太郎翁覚書) 致芳郷土史会編より
【おらだの会】大正8年4月の測量開始は、左岸ルートに決定されたことの証左であった。この事実に対して成田区民にはあまり大きな動揺はなかったようである。けれどもそれは現在の長井線が生まれるか否かの分岐点であった。その年の5月、西置賜郡長 清水徳太郎は郡内の町村長会の席上で「延長ルートは左岸でその終点は鮎貝駅となることは殆んど決定である。荒砥までの延長を実現すべく郡内団結せよ!」と訴えたのでした。詳しくは次の記事をご覧ください。 ⇒ 軽鉄人物伝③ 荒砥町6人衆(その4):山形鉄道おらだの会 (samidare.jp)
【請願書資料提供:ふるさと資料館(南陽市宮内)】