長井以北から荒砥までのルート決定の経緯については「おらだの会2 軽鉄人物伝」でも紹介してきましたが、その多くは荒砥町を中心とする右岸側の動きでした。羽前成田駅開業の歴史を辿る本シリーズとしては、左岸側の動きを探ってみたいと思います。
最初は原敬一氏が「雪国の春5」で紹介された次の請願書をご覧いただきたい。「国家ノ振興ハ都鄙全般ノ振興ニシテ、独リ都市ノ繁栄ヲ意味スルモノニコレナク候」と国の現状を憂い、さらに「欧州大戦ノ好影響ヲ蒙リ、正貨著シク激増」した今が、地方開発の好機であると論じるのです。なかなか格調高い請願書です。さらに村山軽便鉄道との連結も展望していることは、当時の人達の見識と情熱が見えてくるような気がします
軽便鉄道敷設請願
置賜軽便鉄道長井線ヲ、長井町以北ニ延長シテ、急速ニ村山軽便鉄道ト連絡セシメラレンコトヲ請願仕リ候。国家ノ振興ハ都鄙全般ノ振興ニシテ、独リ都市ノ繁栄ヲ意味スルモノニコレナク候。而シテ堅実ナル都市ノ繁栄ハ、カエッテソノ基礎ヲ地方ノ振興ニ置クニアラザレバ、ツイニ樺花一朝ノ栄ト択ブコトナキ状態ニ陥ルベシト存ジ候。従来、政府ノ施設ヲ見ルニ、常ニ都市ニ厚クシテ地方ニ薄キ傾向アルハ、ヒソカニ遺憾トスルトコロニ御座候故ニ、地方ノ振興ハ独リ地方ノ問題ニアラズシテ、実ニ国家ノ重大問題ニコレ有リ候。(中略)
我ガ山形県西置賜郡ハ、全国有数ノ蚕業地ニシテ、繭生糸等ノ産額弐百万円ヲ超過シ、特産長井紬ノ生産五十万円ニ達シ、ナオ逐年逓増ノ趨勢ヲ示シツツ之有リ候、而シテ蚕業ト機業トノ主要産地ハ、実ニ同郡ノ一半ナル。長井町以北最上川ノ左岸ニ点綴スル村落ニシテ、全産額ノ殆ンドト、八分ヲ占有スルノ状況ニ候。且ツコレラ村落ノ西方一帯ハ、千古不伐ノ大森林ヲ有スル朝日嶽ノ連山ニシテ、所材木材、薪、炭等ノ産出夥多ニシテ、年産数十万円ヲ算シ、アタカモ無尽ノ状態ニコレ有リ候。コレニ加エテ各種ノ鉱物ニ富ミ、草岡、白兎、西横田尻、一ツ沢等到ル処採掘、試掘セラルルモノ少ナカラズ候。 (中略)
我ガ国ハ幸イニ欧州大戦ノ好影響ヲ蒙リ、正貨著シク激増シ、却ッテコレガ調節ニ苦慮セラルルノ盛況ニシテ、資金ノ調達マコトニ易々タルノ現象ニ之レ有リ候。宜シク豊富ノ資金ヲ活用シテ、地方ノ開発ヲ企図スルコト、今日ノ如キ真ニ千載一遇ノ好機会ナルベシト存ジ候、仄聞スルトコロニヨレバ、村山軽便鉄道ノ実測略終了シ、山形、左沢等停車場ノ位置既ニ決定セラレタリト、若シ置賜軽便鉄道ヲ長井町以北ニ延長スルコト十里、急速ニ村山線ニ連絡セバ、首尾貫通シテ交通至便独リ沿道ノ乗客、貨物輸送ニ便宜ナルノミナラズ、蚕業、林業及ビ鉱業等勃然トシテ振興ノ機運ヲ促進シテ、マサニ地方ノ福利ヲ開発スルノミナラズ、延ベテ国富ノ増進ニ資スルコト頗ル多大ナルベシト確信仕リ候。以上ノ事由コレ有リ候ニツキ、特別ノ御詮議ヲ持ッテ急速ニ敷設連絡相成リタク謹ンデ請願仕リ候也。
大正 年 月 日
(雪国の春5 原敬一「置賜軽便鉄道資料」より抜粋/下線はおらだの会)
【おらだの会】長文を最後までお読みいただき有難うございます。なお「山形県史本篇5商工業編(昭和50年発行)」には上記の請願書について次のような説明がありました。実印入りのこの請願書を見てみたいものです。
//鮎貝村文書の「軽便鉄道敷設請願」という資料には年月日が入っていないが、「村山軽便鉄道ノ実測略々終了シ云々」などの文面から考え、大正7年ごろのものである。提出署名者は、長井村長佐々木宇右衛門をはじめ、鮎貝・蚕桑・西根各村の村長、郡会議員・村会議員、さらに各区長・区会議員などで、実印入りで名を連ねている。//