昔成田には7軒の金持ちがおった。佐々木宇右衛門、佐々木忠右衛門、佐々木太左衛門、横山仁右衛門、飯澤半右エ門、飯沢半十郎、山口惣右衛門の7軒である。頃は享和(1,801~1,804年)から文化、文政、文久、元治(1,864~1,865年)のあたりまでの5,60年の間である。(ちなみに米沢藩の藩主は第9代上杉治憲(鷹山)が1785年に退位した後の10代治広、11代斉定、12代斉憲の御代にあたる。明治元年(1868年)を間近に控えた頃のことである。)
古老の話によると、成田の財閥の全盛時代には長井町の商業資本は殆んど成田から出ていたという。小出、宮、成田の財力を瓢箪に例え、瓢箪を横にして頭の小さいところは小出、中のくびれているのは宮、尻の大きいところは成田であるという。
【写真:「東講商人鑑」(長井市史第二巻近世編 564貢より)】
写真は安政2年(1855年)に刊行された「東講商人鑑」。長井市の28人の中に、成田の佐々木宇右衛門、忠右衛門、太左衛門、小西屋仁右衛門、そして国主御用茶を製する五十川の平吹市之丞が掲載されている。また右下の略図には成田八幡宮が描かれ、「成田村佐々木卯右衛門の庭前に大木の栗あり 凡六百年余也 廻り三丈余あるべし 今に枯ずして其勢さかんなり」と記されている。佐々木家と栗の木については改めて紹介しましょう。