この7軒のうち金持ちの筆頭は何と言っても佐々木家であった。佐々木家の先祖は近江の国の大名の時代から新発田を経て大判小判を背負って来たと言われ、ここに土着した時から既に大金持ちと言われた。
その頃、金を貸していた宮、小出の人達を毎年秋の「えびす講」に招待した。そして一番多く貸しているお得意様を正座に据えていたが、それはいつも宮の長沼惣右衛門だったという。その頃惣右衛門は大きな太物屋で年千両の利息を上げていたということである。利息が千両というと、少なくとも一万両の金を常時貸していたことになる。今の米価に換算すると7億円という大金になる。それは惣右衛門一人に対する貸金であって、招待した一座の人達に貸した貸金の合計はどんなになったろうか。目の回るような話である。もっともこうした多額の金貸しは佐々木家だけであって、他家はそれほどではなかった。
【写真:「佐々木家ご本陣見取り図」(致芳史談会編「御本陳(陣)記録」39貢より)】
長井市史(第二巻近世編 743貢)によれば、佐々木家は民家としては唯一、藩主上杉家の本陣(大名の宿泊所として指定された家)に定められていたという。「ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編)」には「藩主が14回立ち寄られ、そのうち8回お泊りになったと御本陣記録に残っています」とある。