弁慶の供養塔④

 ところが翌年になっても、その次の年になっても何の消息もなくなってしまったのでありました。そうしておりますうち、いよいよ3年目の文治5年(1189年)の夏、奥州衣川において泰衡が突然の夜討ちによって、義経主従をことごとく討死にしてしまったという。引き続いて頼朝の奥州征伐となって、泰衡はじめ平泉の藤原氏がことごとく滅亡してしまったという噂が、こんな田舎にまで伝わって来たのでありました。

 

【補足】 衣川は、「弁慶の仁王立ち」の逸話が残る場所ですが、前九年の役(1060年頃)に源義家と卯の花姫の父とされる安倍貞任が戦った場所でもあります。安倍家滅亡後100年を経て、奥州の覇王藤原家が東征の軍によって滅亡させられたのでした。

 

2020.02.19:orada3:[  №2 弁慶の供養塔]