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ここから始まった

2月7日

 うれしいも悲しいもここから、ここから始まった。集団就職で友を見送った駅。わんぱく坊主の同級生が偉くなっていたっけ。悲しい知らせに涙流して降りた成田駅。なつかしい、なつかしい。ここから、ここから人生が始まった。間もなく、天国の皆様に会える日も近い。

 

 

【おらだの会】停車場ノートへのこの投稿は2月7日の日付となっている。折しも「駅茶こぼれ話」に、「集団就職」の連載を終了したのと同じ日であった。「くじけちゃならない人生が、あの日、ここから始まった」という「ああ上野駅」の歌詞そのままの人生を生きた人がいたのだ。そんな皆さんにとってこの駅舎でのひと時が、懐かしい友との心安らぐひと時であることを願っている。ああ成田駅!

 

 → 「ふるさと」から「ああ上野駅」へ:おらだの会 (samidare.jp)

2024.02.13:orada3:コメント(0):[停車場ノート]

「ああ上野駅」から「仰げば尊し」  

  • 「ああ上野駅」から「仰げば尊し」  

 大正から平成まで歌をとおして辿って来た。最後に白鷹町の荒砥中学校卒業生(荒十会)の同窓会誌に「集団就職列車に同行して」と題する投稿が掲載されていたので紹介したい。「集団就職」という言葉自体が消え去ろうとする現代にあって、社会の大きなうねりの中で、生徒たちと寄り添い続けた教師の姿を伝えたいと思うからである。

 

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 私は3学年の副担任として就職係を担当することになった。当時の卒業生の進路は進学、就職、自家自営がそれぞれ約3分の1くらいの割合であった。就職希望者には相談表に記入してもらい、適性検査なども実施していた。職業安定所から来たパンフレットを廊下に張り出し、それから選んでもらい、職業安定所の職員が来校し、個人面接をして決めていた。

 

 集団就職が始まったのは昭和27年(1952年)、28年(1953年)頃からで、就職列車が出るのは3月29日から30日頃だった。午前7時頃、長井駅に西置賜安定所管内の卒業生が集まり、赤湯へ向かった。長井駅ではものすごい人混みで、各校ごと校歌を歌い、長井中学などは吹奏楽を演奏して激励し送り出した。それぞれの学校の就職係が付き添い、私も担当として同行した。

 

 夜行で上野駅に朝5時ごろ到着する。上野駅には管轄の安定所ごとに幟を立てて出迎えた。駅の近くの広場で引渡しが行われたが、何といってもまだ15歳。引き取られていく生徒を見るのは辛く、もごさい(可哀そうな)ものだった。その後私たち就職係は、自校生徒の就職先を訪問した。1週間くらいはかかったと思う。中には、「すぐに帰りたい」と言い出す者もいた。住宅の一部に看板を掛けただけのような規模の小さい縫製会社などがいっぱいあった。求人票で見て考えていたイメージと違うということもあったと思う。

 

 S君は食糧組合に入ったかと思う。彼はまだまだ子供っぽさが残っており、果たして務まるかなと心配した。しかしコメの配達の仕事をして、得意先から大変めんご(可愛)がられて駄賃などをよくもらったのだという。そして米屋さんの養子に迎えられ、大変成功したと聞く。関東での同級会に私も呼ばれて出席した時、立派な社長の風格で、よく我慢して頑張ったんだなぁと思ったものだ。

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 これを読んで、中学時代の恩師の顔を想い出した。同級会で教え子の現況報告をニコニコしながら聞いてくれたものだった。先生が亡くなったとき、先生に一番叱られた友達が弔辞を読んだ。最後の「先生ありがとう」の言葉は泣き声だった。

 仰げば尊しわが師の恩。互いに睦し日頃の恩、別るる後にもやよ忘るな。「ああ上野駅」から「仰げば尊し」に漂着してしまったが、それぞれの心の故郷の中には、恩師と友との想い出があるのだと思う。

 

 

【おらだの会】写真は、荒砥中学校卒業生(荒十会)同窓会記念誌から転載。

 

2024.02.07:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

「ふるさと」から「ああ上野駅」へ

  • 「ふるさと」から「ああ上野駅」へ

 「ふるさと」から50年後の1964年(昭和39年)に、「ああ上野駅」が発表された。「サライ」の約30年前である。この時代は明治期から続く地方からの人口流出の流れが、「就職列車」という形で、国家的な掛け声のもとに進められた時代である。この歌には当時の社会情勢が強く反映されていると思う。

 

 この歌では、ふるさとに残る父母とは、「休みになったら畑仕事を手伝い、もういいと言うまで肩をもんでやるからな」という密接な関係が残っている。そして、「お店の仕事は辛いけど胸にゃデッカイ夢がある」という具体的な夢が表現されている。それは、「ふるさと」では明確に意識されずに、「サライ」では消えてしまっているものである。国民が共通して持てるような“夢”がなくなったことを示すものであろうか。

 

 ドキュメンタリー番組などでは、集団就職の辛い別れの様子が流れるが、歌い手の井沢八郎の声は明るく張りがあり、その表情には悲しさや辛さを感じなかったように思う。それは、高度経済成長へとつながる日本全体の明るさを背景にしたものであったろうか。いづれにしても私たちの駅に対する原体験や原風景も、「ああ上野駅」にあるように思えるのだ。

 

【おらだの会】写真は、上野駅広小路口にあるモニュメントだそうだが、残念ながらまだ見たことがない。

 → 停車場憧憬 集団就職の頃:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 → (53)就職列車で(昭和30年代から):おらだの会 (samidare.jp)

2024.02.04:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

(53)就職列車で(昭和30年代から)

  • (53)就職列車で(昭和30年代から)

 以前「昭和39年の光と影」と題して、東京オリンピックと国鉄改革に係る時代の動きを書いたが、この昭和39年は「ああ上野駅」という歌謡曲が発表された年でもある。長井駅ほどの混雑ではないにしても、成田駅で友達を見送った停車場の光景は今も切なく思い出される。

 

 親戚が集まり、同級生が帰って来るお盆は、家族や地域との縁と絆を確かめる時間でもあった。けれどもコロナ禍が収まらない中では、故郷の祭りも中止となり帰省もままならない。「就職列車」の記憶が失せたとしても、「家族」や「ふるさと」という言葉が死語にならないことを願いたいものだ。

 

 (20)昭和39年の光と影:おらだの会 (samidare.jp)

 

 停車場憧憬 集団就職の頃:山形鉄道 おらだの会 (samidare.jp)

 

 

 

【おらだの会】写真は、小口昭遺作展「長井線の今・昔」より。

2022.08.09:orada3:コメント(0):[羽前成田駅100年物語]

成田駅の宝物(20) 運賃表

  • 成田駅の宝物(20) 運賃表

  待合室に掲示されている運賃表。山形の知人によると「昭和57年4月の料金改定時の運賃表だろう。」とのこと。来訪された方からは、「寝台列車に乗りたかった」とか「急行だってよ」などの声が上がります。前回紹介した硬券ホルダーでは東京都区内が5,500円でしたが、この運賃表では4,500円となっています。日光と富山の料金が同じなのも面白い。

 

  そして今ではほとんど乗降しなくなった上野駅が見えます。上野駅には長井出身の彫塑家・長沼孝三さんの「愛の女神像」が昭和24年に設置され、歌謡曲「ああ上野駅」(昭和39年)も懐かしく想い出されます。けれども平成3年の東北新幹線の東京駅乗り入れと翌年の山形新幹線開業によって、上野駅は遠い存在になってしまいました。

 

【おらだの会】 原本の保存のため、現在、待合室には複製の運賃表を掲示しております。

2021.02.01:orada3:コメント(0):[成田駅の宝物Ⅱ]
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