卯の花姫物語 3-⑧ 桂江の遭難

送橋山越桂江の遭難
 見知らぬ人と言わせておかぬと云い乍ら、冠った笠を空天にばっとかなぐり飛ばした顔は、正しく覚念坊であった事は云う迄もないのである。
 桂江思わず、あれ・・え・。誰かと思ったら覚念さんと、云わせも果てずにからからと一つ笑って、やい誰かと思わなくても立派な御前に惚れた覚念様である。古寺の山中では見事に振られてしまったが、今日は深い計略の網を張って御待ち申し上げておりましたから、今日と云う今日こそは萬に一つとも逃してはおかない。どうせ面倒臭い事は抜きにして、俺が云う事に従って一旦の休み場所に借りていた荒れ寺迄で俺と一緒におとなしく行くのはかえって御前の身の為だ。御供の者もこの通り御待ち申しているのである。さ、早よう一緒に参らっしゃいと。桂江はこれ迄で深く計られた事を知ったので、二度びっくりの驚きであったが、こうなっては最早問答無用の絶体絶命と云うものである。物をも云わずに後ろに飛び退がって、手早く帯の間の守り刀は九寸五分の短刀の鞘をきらりと払って逆手に持って身構えた。桂江心に思う様女として身体だに辱かしめを受ける事だけは死んでも守らねではいられないと決心した。
 覚念もただでは行かないと見て取ったから、大音にそれ各々やって終えと云う下知のもと、八人の悪僧共一斉に棒ち切れを打振ってかかってくる。最も覚念は元から殺す気ではない。長い間程よくあしらって女の身体がへとへとになって動けなくなるのを待って、両方に怪我のない様にしてそっくりと生け捕りにして、荒れ寺に連れて行こうと云うのが彼が魂胆であったのである。
 桂江の方ではそれとは知らない。多勢に無勢と云うので、程よくあしらって自分が疲れ果ててしまうのを待っておられるとは気づかないで、一生懸命大勢を対手に戦ったので、次第に身体がへたへたになって、眼くらんで其場に遂々倒れて終った。
 そうして向うの思う存分に何の苦もなく後ろに縛り上げられ、そっくり生捕りにされてしまったのである。生捕って終わった後の覚念は、極めて親切であった。手下の者に命じて水を含ませてやったり、薬を含ませたりして労わった。御前が素直にさえ定めの場処に行ってくれると、こんな真似はしないでも済むのであったのにと云うて笑っておると云う。

2013.01.05:orada:[『卯の花姫物語』 第3巻 ]