若者達へ ⑫ファミリーストーリーに注目

 今、NHKの夜に流れる番組に「ファミリーストーリー」がある。この番組は、有名なタレントやアスリートのルーツを探る番組である。市川亀次郎が登場した番組をみた。初代の猿之助は、市川亀次郎の曽祖父にあたるらしいのだが、その妻が女傑であり吉原か浅草辺りの芸者衆を育てた人であった。亀次郎の体を流れている芸人の血は、そこから始まっているというものである。(記憶に不確かなものがあるが)
 次に見たのがスケーターでオリンピックに出場した小塚崇彦さんの物語でした。彼のお爺さん(光彦)は、中国満州で育ち、その地でスケートを教えていた。そこに素敵な地元の女性がいた。ライバルであった友と3人でオリンピックに出場することを夢見ていた。しかし時代は世界大戦の時代へと向かっていた。光彦氏本人もカメラマンとして軍の特殊任務に就くようになる。そして友人は招集され、激戦地の南方へ―「オリンピックをあきらめてはいけない。夢は子や孫に伝えてゆくことが出来る。」との言葉を残し戦死したという。
 光彦が戦後戻った故郷は焦土と化していた。しばらくは生活のため日々を過ごさねばならなかった。そんな中、待望の男子を授かる。崇彦選手の父、嗣彦氏である。嗣彦氏の誕生が眠っていたスケートへの情熱に火が付いたのだろうか、戦後のまだ施設の整わない時代、スケートをするといえば冬場に天然結氷する湖沼に赴かなければならない。そして地元愛知でメンバーを募りスケート連盟の設立に携わる。有力企業などを巡り資金提供を得て、1953年、屋内リンクを備えた名古屋スポーツセンターが完成。戦後8年目のことである。
 時は移り孫・崇彦くんがスケートを習い始めたころ、カメラを片手に欠かさずリンクに通っていた。本人はもう、スケートはできない歳になっていたはずですが、自分が若いころ感動し情熱を傾けたものを、孫に伝えずにはいられなかったのでしょう。息子に続いて孫・崇彦くんもオリンピックへの出場を果たす姿を、2009年、バンクーバーオリンピックで見ることができたのです。そんな時、突然光彦氏のもとへ満州で一緒にスケートをした、という女性からの電話が。もちろん光彦氏にスケートへの情熱を植え付けた当の本人・・・。TVで活躍する崇彦くんの姿を見て、もしやとご親戚かと思い連絡をとったとのこと。電話は数十年の時間を超え互いに「会いたい」と思いを伝え合うのだが、ついにご本人同士の再会はかなわなかった。
 最後に崇彦くんの言葉が流れる。「おじいちゃんが昔スケートを始めたころに習ってきて、ずっと大事にしてきたこと。それが受け継がれてきて、今のボクがあるんだな、と思うとすごく長い、大切にしなければいけない歴史ていうものを感じる。まわりの人からずっと‘サラブレッド’って言われて、馬じゃねえし、と思ったりしてたけど、そういう単純な意味でなく、受け継いできたものを後世にも伝えてゆく・・・小塚家でなければ伝えられないこともあると思うんですよ」
 さて、今の時代に悩む若者達よ、このストーリーを静かに考えてみて欲しい。『真説・桃太郎物語』で書いたように、吉備団子を作ってくれたのは、お爺さんとお婆さんなんだ。君の体の中には、優しいお爺さんとお婆さんの温かい血が流れているのだということを。
2013.03.21:orada:[変な民族学4巻 若者達へ]

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