卯の花姫物語 ⑧安倍家報恩の餐宴

 安倍家報恩の餐宴

 慰霊祭を終わした後から翌年餐応の催し準備にかかっていた。愈々天喜二年(西暦1055年)の春がやってきた、其旨国府にも届けて許可を得た。其の趣向の内容は斯うである。全く敵意のない真を表することを旨とした趣向によって、召連れ行く家来の男は、人夫を差図する係の者極小数の者とした。餐応接伴の席上は、悉く奥州粒選り揃いの美人一層のもてなし方とした趣向である。
 其の期日は四月十五日と定めておいた。順序は貢献の物品を先として、安倍家の物から始まった。国府多賀の城門に向かって国産の貢物を担ぐ人夫の行列が進物奉行の下知に従って進んで行った。(当時奉行とは今で云う担任と云う意味である)其献上の品々には真っ先に弓矢、太刀、砂金三千両、呉服物二百領、奥州名産の鞍置馬五十疋、中折紙三百束、海豹の滑し革三百枚、千鯛一千尾、鋳物数品、蜘蛸二千連、悉く白木の台に載せて城内に担ぎ込む、其人夫陸続として前なる者は早門内に這入ったが、あとの者が安倍家の宿舎と定めた栗原寺の門を出来上がらないと云う豪勢なものであったと云う。
 其地奥羽両州の応援の輩・清原氏以下身分の上下に応じて貢献したが省略した。
 当時使用の料理酒肴の一切は、御膳部奉行の下知によって宿舎の台所で朝早くから調理を終わした。大勢の人夫をして城中に持ち運んで行った其行列又陸続として城門に続いた光景であった。席は城中の大広間、正面御帳台の上段には将軍父子の御座である。下段左右の両側に、重臣の面々につづいて各将校級の連中がずらりと居並んだ。 其次の席は両国応援の各豪族連中が着席した。将軍父子と真向かいになって横に並んだのは、其日の行事主役・安倍の一族一同の者であったのは云うまでもないことである。
 式開会の挨拶から貢献の物産品目の披露等は、係の家来が一切を奉行して萬端滞りなく相済んだ。配膳一切は御膳部奉行の家来が凡てを受け持って滞りなく配って置いた。配膳の上には山海河川の珍味渦ず高く盛り並べ、真に善尽し美を尽した。其結構の様は、全く目を奪うばかりのものであった。
2012.12.31:orada:[『卯の花姫物語』 第壱巻]

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