さてさて、上杉謙信の悲しい『天・地・人』については、少しは分かってくれたかと思います。次は、長井の悲しい『天・地・人物語』を語ってみましょうか。
松尾芭蕉が奥の細道に旅立ったのだが、その当時の東北は「道の奥(みちのく)」であった。そんな東北が、脚光を浴びたのが、舟運による流通時代に突入した頃だ。しかし、山形県の奥の奥にある、長井市は「道の奥」であり「川の奥」にあった。まったく“地の利”がなかった訳だ。ところが、西村久左衛門が元禄7年(1694年)に黒滝開削をしてから、長井は上杉藩の貿易拠点として栄えた。ようやく“天の利”が来そうな時に、酒田辺りの商人が通行料の値上げ攻勢に出てきた訳だ。そのために、長井の商人たちは、新潟県村上市に直接陸送するために、西山新道を開設し、希望をつなごうとしたんだ。ところが、明治の世になって、官軍が新潟から攻めてくるとの噂が広がり、商人たちは自らの手で、西山新道を破壊しなければならなかった。まったく“天の利”もない。
さらに時代はめぐり、鉄道の時代になった。長井に待望の鉄道ができたのが大正3年(1914年)。さらに昭和に入って、鉄道から自動車輸送の時代に入った。国鉄長井線は切り捨てられ、第三セクターとなった。時代は、国道や高速自動車道の時代になったが、長井にその“光”は今もって届いてはいない。“天の利”も“地の利”もないのだ。ならば、“人の和”はあるのだろうか?それが問題だ。
【写真】長井付近を走った小鵜飼舟
長井の天・地・人とは・・・
2013.04.14:orada:[変な民族学3巻 置賜の民俗学 ]
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