戦国観光やまがた情報局

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山本寺景長(さんぽんじかげなが):1550〜1582
  一門衆。不動山城主山本寺定長の弟。天正6年の御館の乱で、定長は上杉景虎に味方したため景勝軍に敗れた。弟景長は上杉景勝に味方し活躍した。
  天正8年(1580)景長は兄定長のあと、山本寺家を継ぎ不動山城主となった。
  天正10年(1582)織田信長の攻撃を受けて魚津城は落城し、景長は竹俣慶綱、吉江宗信、吉江信景、安部政吉らとともに自刃した。


直江信綱(なおえのぶつな):?〜1581
  譜代・旗本衆。上野国総社長尾顕景の子。与板城主直江景綱の娘お船の方の婿となる。上杉景勝の奉行職。
  天正9年(1581)春日山城中で、御館の乱の論功行賞のもつれから、毛利秀広が山崎秀仙を斬殺。秀仙と一緒にいた信綱はとっさの出来事に驚き、秀広に斬りかかったが、逆に斬殺されてしまった。


泉沢久秀(いずみさわひさひで):?〜1615
  上田衆。上杉景勝の直臣。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、荒砥城1万1千石の城代となった。
  慶長6年(1601)米沢移封により2千8百石を知行した。元和元年(1615)死去。嗣子が無く泉沢家は断絶。


甘粕景継(あまかすかげつぐ):?〜1611
  上杉景勝の景の一字を賜わり、名を備後守景継と改める。
  文禄2年(1593)庄内酒田城主となった。慶長3年(1598)景勝の会津移封に伴い、2万石の白石城主となる。慶長16年(1611)死去。墓は米沢市林泉寺にある。


鉄 景信(くろがねかげのぶ):?〜1597
  もと上田坂戸城主長尾政景の家臣。政景死後、上田衆を掌握して領内を治め、景勝が謙信の養子となると側近として春日山城へ移り、謙信に従属、戦功を挙げた。
謙信死後は景勝の直臣となり、上田衆を率いて五十騎組の精鋭を作り上げた。


河田長親(かわだながちか):1545〜1581
  上杉謙信の重臣。永禄12年魚津城主となり越中守将を統括した。天正9年(1581)4月8日、魚津城で死去。


吉江宗信(よしえむねのぶ):1505〜1582
  譜代衆。謙信、景勝二代に仕える上杉家重臣。蒲原郡吉江城主。景勝時代には老齢となり留守城在番となる。
  天正9年(1581)河田長親病死により越中魚津城在番となるが、翌天正10年(1582)、信長軍に包囲され越中魚津城で自刃した。


吉江景資(よしえかげすけ):1527〜1582
  譜代、旗本衆。吉江城主で謙信の旗本として春日山城の留守を預かった。
  天正6年(1578)の御館の乱では上杉景勝方として軍功をたてる。
  天正9年(1581)から越中魚津城守備に付くが、翌10年、信長の攻撃を受け、父宗信と共に自刃した。


菅名綱輔(すがなつなすけ):?〜1582
  越後国衆。菅名但馬守。上杉謙信・景勝に仕える。御館の乱では、景虎方の拠点となった加茂城を攻め落とした。
  のち新発田重家の乱でも奮戦したが、放生橋の戦いで討死した。


本庄繁長(ほんじょうしげなが):1539〜1613
  揚北衆。元服と同時に家督を相続し本庄城主となる。
永禄11年(1568)信玄の調略に応じた繁長は上杉氏から独立を目論むが、謙信の猛攻を受け、嫡子千代丸(後の顕長)を人質に降伏。
  御館の乱、新発田攻め、最上攻めで活躍するも恩賞はなかった。
  慶長3年には1万1千石の福島城主に任ぜられる。家康との和睦交渉をまかされ、上杉家は改易を免れた。
  慶長18年(1613)死去。享年75.嫡男顕長が先立って死去しているため、家督は次男義勝が充長と改名し相続した。


中条景泰(ちゅうじょうかげやす):1558〜1582
  吉江景資の次子。謙信より一字を賜わり景泰と名乗る。天正2年中条家を相続し鳥坂城主となった。天正10年越中魚津城で自刃。享年25。


水原親憲(すいばらちかのり):1546〜1616
  大関阿波守親信の子、弥七郎。謙信・景勝に仕え水原家を相続。慶長3年、5千5百石で亀ヶ城主(猪苗代城)となった。
  最上攻めでは兼続の本隊に属し畑谷城、長谷堂城を包囲。上杉軍の撤退に際し殿軍を務め活躍した。
  慶長6年には会津三奉行に任ぜられる。慶長19年の大坂冬の陣にも鉄砲隊を率いて参陣。元和2年(1616)死去。享年71。


竹俣利綱(たけのまたとしつな):?〜1614
  揚北衆。竹俣城主竹俣慶綱の嗣子がなかったため、長尾景人が竹俣城主を相続し、利綱と改名した。
  会津移封に伴い守山城主となり、米沢城に移り慶長18年死去。


市川房綱(いちかわふさつな)?〜1657
  竹俣利綱の遺領を相続した房綱は、慶長19年の大坂冬の陣と元和元年大坂夏の陣に出陣。寛永9年(1632)江戸家老になった。寛永12年には米沢藩の奉行も務め2千石を知行した。明暦3年(1657)死去。


下条忠親(げじょうただちか):?〜1617
  河田長親の次男。慶長3年景勝の会津移封に従って二本松城主となる。慶長6年米沢移封に同行。慶長13年鮎貝城主となり慶長19年の大坂冬の陣に参陣。元和3年(1617)死去。


新発田長敦(しばたながあつ):1538〜1580
  新発田綱貞の嫡男、源次郎。新発田城主。新発田重家は弟。謙信・景勝に仕える。
  御館の乱では景勝を支持し、揚北衆の取りまとめと景虎与党の鎮圧に活躍した。天正8年(1580)病死。


色部顕長(いろべあきなが):?〜1587
  色部勝長の嫡男、弥三郎。平林城主。天正4年家督を弟長真(長実)に譲り隠居。天正15年死去。


色部光長(いろべみつなが):?
  色部長真(長実)が死去すると、幼少の光長が家督を相続。直江兼続の妹(樋口兼豊の二女)を妻に迎える。慶長3年1万石の金山城主となる。慶長6年米沢城下に移り3千3百石を知行。大坂冬の陣にも参戦。


甘糟長重(あまかすながしげ):?〜1604
  謙信・景勝に仕える。景勝の命で三条城主となり、天正14年新発田攻めに参陣。景勝に従い慶長3年会津、慶長6年米沢へ移る。慶長9年死去。
  墓は米沢市栄松寺にある。


千坂景親(ちさかかげちか)1536〜1606
  千坂氏は上杉家直臣で、文禄4年伏見普請総奉行を務め、慶長3年会津移封で5千5百石を知行。慶長8年江戸家老を務め、慶長11年死去。


斉藤朝信(さいとうとものぶ):?〜1591
  赤田城主。謙信・景勝に仕える。天正6年御館の乱で軍功をたてた。天正9年(1581)越中魚津城に入ったが、翌10年には信濃海津城に移った。天正19年死去。


志駄義秀(しだよしひで):1560〜1632
  義秀は直江兼続家臣団の与板衆として活躍。慶長3年会津移封に従い酒田城主となった。慶長6年には荒砥城主となり、1千石を知行した。元和8年(1622)米沢城で奉行職となる。寛永9年(1632)死去。墓は米沢市善光寺にある。享年73。


本村親盛(ほむらちかもり):?〜1600
  最上義光攻めの第二弾として上山城を攻めたが、途中、物見山山麓において最上方の奇襲を受け、大敗を喫した。自身も深田にはまって苦戦し、討死した。
     関連史跡:大将塚(埋葬地/上山市)


横田旨俊(よこたむねとし)?〜?
  旧蘆名家臣。主家没落後、越後にきて上杉家に仕えた。会津移封にあたって、対最上の最前線となる中山城主となる。慶長出羽合戦の際は、第二陣として上山城攻略に向かうが、本村隊の敗北を受けて退却した。戦後も中山城主として対最上の防衛に任にあたった。
     関連史跡:中山城址(上山市)


倉賀野綱元(くらかのつなもと):?〜?
  小滝城主。慶長出羽合戦では、別働隊約8百を率いて進軍し、狸森楯(上山市)を攻略、長谷堂城を取り囲む本隊と合流した。


安部綱吉(あべつなよし):1569〜1646
  菅原内膳の子、右馬助。父は越後安部荘を領していたが、本庄繁長と戦い討死した。そのため各地を渡り歩き、出羽国北条郷の宮内に落ち着いたという。
  慶長出羽合戦では、倉賀野綱元の配下として参陣し、長谷堂城の戦いで武功を挙げた。その後、北条郷の代官となり、宮内の町割りや新田開発、治水事業に尽力した。また金山奉行として金山の経営も任された。
     関連史跡:熊野大社・安部右馬助の顕彰碑(南陽市)、綱正寺(墓/南陽市)


溝口勝路(みぞぐちかつはる):?〜1600
  左馬助。慶長出羽合戦では軍奉行を務めた。撤退に際しては水原親憲とともに殿軍として鉄砲隊を指揮、親憲は富神山東麓、左馬助は柏倉中林山に布陣し、追撃に出た最上軍と激戦を展開した。勝路はこの戦いで重傷を負い、夜営した長岡楯にて息を引き取った。
     関連史跡:長岡楯跡(山形市)


鉄 泰忠(くろがねやすただ):1564〜1635
  島倉泰明の子。鉄景信の養子となる。孫左衛門、上野介。会津神指城築城の総奉行を努めた。慶長出羽合戦では、第一陣として参加。大坂冬の陣では軍奉行として武功を挙げ、徳川秀忠かた感状を受けた。江戸城の石垣普請や堀普請の総監も務めた。
     関連史跡:神指城址(会津若松市)


下 吉忠(しもよしただ):?〜1614
  父・秀忠は北条氏の家臣で、小田原征伐の際に戦死。その後、吉忠は上杉家に仕えて頭角を現し、出羽庄内の尾浦城主となった。慶長出羽合戦では、別働隊を率いて庄内から最上領に侵攻したが、直江兼続率いる上杉軍本隊の退却を知らされず、谷地城に孤立し、最上義光に降った。その後、最上軍の庄内攻略戦に先陣として参加、引き続き尾浦城主に任じられた。
     関連史跡:尾浦城址(鶴岡市)


伊東豊後守(いとうぶんごのかみ):?〜1600
  九州日向国の領主だった伊東家の一族である。島津家と協力関係にあったため、1587(天正15)年、豊臣秀吉による九州平定によって所領を失ったが、その後蒲生氏郷に仕えて中津川の岩倉館に入った。氏郷の死後は上杉家に仕え、豊後守・日向守親子が18名の家臣を率いて最上の陣に参戦するも、豊後を含む18名が八ヶ沼の戦いで戦死。家臣の山川儀助と日向守の二人だけが帰還できた。


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