山形でクラス被災者日記

▼☆水素爆発☆PART3

【津島】の避難所に着いて、ひと息ついた頃、施設内には、テレビが置いてあり、みんなが地震情報を食い入るように観ていたので、行ってみました。各被害状況の報道番組でしたが、津波の被害を見て唖然としました。

この時初めて、浪江町の海沿い、【請戸】も、津波の被害にあったと知りました。
私の中では、津波警報が出ても、数十pの津波しか認識が無く、あの映像は、映画やドラマの中での話なんじゃないかとしか、思えませんでした。どうしても、信じられなかった…


pm 3:36

テレビの方から、ガヤガヤと聞こえてきて、何だろうと近寄ってみると、福島第一原発 1号機の水素爆発の映像でした。

私には、もう何が起きているのか、さっぱり理解出来ず、ただただ、体中の血の気が引いていく感覚だけがありました。
だって、あの原発が爆発???
ジェット機が追突しても、原発は大丈夫と昔、誰からか聞いた記憶があります。それくらい、原発は安全だと信じ切っていたところがあり、地震の影響で、原発がどうにかなるとは、考えてもいなかったのです。

気が付くと、周りの人達が、【津島】の施設内から、逃げ出そうと、出入り口がパニック状態になっていました。
「私達ももっと遠くへ逃げなくちゃ‥」
子供達を呼びに行こうとしたら、浪江町の職員の方が、「ここは、原発から20q離れているから、安心です。外に出る方が、危険ですので、外に出ないで下さい」
私は、主人が不在の中、どう決断して良いのか分からず、とりあえず、町の職員さんの言葉通りにする事にしました。

主人とは、昨夜、一回だけ、携帯電話がつながり、地震の被害にあった事は、伝えましたが、いま、原発問題で避難する事になったとは、知らせる事が出来ませんでした。全然、携帯電話が、つながらない状態だったのです。緊急時に使えない携帯電話って、何の意味があるんだろう?

ひとりで、子供達4人を守らなくちゃ…すごい不安な気持ちと、ずっと、闘いながらいました。
とにかく、祈る事しか、出来なかった。。

避難していた施設内は、床が見えない程、全てが人で埋め尽くされていました。急に避難する事になったので、受け入れ先も、何の準備も無かったからだとは、思いますが、ここで過ごした時間は、地獄でした。
身体の不自由なお年寄りの方もたくさんいらっしゃいました。最初の頃は、出ていた水も止まり、トイレも流れなくなってしまいました。女性の場合は、トイレの横に、ゴミ袋が置かれ、小の時は、トイレでして、使ったトイレットペーパーは、その袋に入れるように指示されました。大の時は、外に作られた、簡易トイレ… 地面に穴を掘り、足場にただ板を置き、ビニールシートで覆われただけの空間…
その簡易トイレもすぐにいっぱいになり、男性の方達が、一生懸命、穴掘りをしていました。

場所がなく、施設内のトイレのすぐ出入り口にまで、毛布を敷き、横になっている方達もいました。流れないトイレ、臭いもかなり、きつかったはずです。
私は、ここで過ごした時間、感じた事は、ずっと忘れる事は無いと思います。

夜も深まってきた頃、聞き覚えのある声が… 青森にいたばすの主人が立っていました。青森から、車で11時間かけて、福島へ帰って来たのです。この時は、心の底からホッとしました。末娘が、ボソッと、「パパが来て、良かったね」 泣きそうになりました。


3月13日(日)

この日は、朝食から、外で配る事になりました。施設内が、混み合っていたので、仕方ないとは思いましたが、何だか気持ち悪かったのです。でも、子供達もいるし、何も食糧がないので、食べない訳にはいかず、炊き出しを配っているところに、子供達と並びました。

米も無くなり始めたのか、昨日 いただいたおにぎりとは、大きさがあまりにも違う、ゴルフボールほどのおにぎりを一つと豚汁。 すぐに「お腹空いた」 子供達の声がつらかったです。

次第に、施設から移動する人達が増えて来て、私達家族も、もっと遠くへ、移動する事にしました。

車で、次の避難場所に、向かっている途中、私の兄と携帯電話がつながり、福島県内の兄の単身赴任中の住居へ避難させてもらう事になりました。
移動中、郡山市や須賀川市を通って来ましたが、ここも、地震の被害がかなり大きかったようです。 ガソリンが赤ランプで、困っていたら、何とか開いてるスタンドを見つけられましたが、緊急事態なので、二千円分だけと言われました。
コンビニも、ほぼ全ての棚が空っぽ状態でした。
コンビニもスタンドもありとあらゆる店が閉まっていて、何だか異様なかんじでした。

兄の単身赴任先には、10日間ほど、お世話になりましたが、この町も、地震被害で断水中で、大変苦労しました。
今まで、当たり前のように、使っていた水道、電気、ガス…こんなに、貴重な物だったとつくづく、思い知らされました。
その後、福島県内の水道水にも放射能汚染が出始め、兄の単身赴任も3月いっぱいで終わり、移動になる事もあり、山形県内のとある町に避難させていただく事にしました。

私が、山形県内に避難させていただく事になり、まず、最初に感じたのは、山形の皆様の心の温かさです。
皆さんのあたたかいお言葉に、どれだけ励まされたことか…支援物資も本当に助かりました。

私自身、すぐに帰れると思っていたし、急な避難指示でしたので、家から、何も持ち出す事が出来ませんでした。車泊する為に持ち出した毛布だけです。それどころか、玄関の鍵も締めずに、出てきてしまいました。通帳、保険証などの貴重品も勿論、家の中…
その後、被災地で窃盗などの被害が出ていると聞き、心配で心の休まる日は、ありませんでした。
先日の一時帰宅でやっと、家に戻る事ができ、玄関の鍵や窓は開きっぱなしでしたが、おかげさまで窃盗などの被害は、ありませんでした。
それまでは、一時帰宅の夢や泥棒に入られた夢ばかりみて、不安で仕方ありませんでした(>_<)


改めて、この場をお借りして、御礼申し上げます。
この度は、みなさまのあたたかいご支援を頂きまして、本当にありがとうございます。心より感謝しております。

みなさまのご支援に、報いる為にも 前を向いて、精一杯、生きていきたいと思います。



2011.07.13:nakamurake

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