「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦

直江兼続(なおえかねつぐ) 最上義光(もがみよしあき)
ログイン
メモ メール アンケート カレンダー ブックマーク マップ キーワード スペシャル プロジェクト
徳川家康が後顧の憂いなく、関ヶ原合戦に全力を傾注できたのは、最上義光が上杉を牽制したからだと言われる。その点で、半月もの長期間にわたって上杉軍を釘づけにした「慶長出羽合戦」は、大きな意味があったといえるだろう。

合戦後の論功において、義光は33万石という異例の加増を受け、置賜を除く山形県全部と秋田県南部を含む57万石の大大名になった。

合戦後の最上時代は、新たな山形の夜明けであった。都市山形はここからスタートした。平和を謳歌する領内は、産業、経済、文化、各面にわたって大きな飛躍を遂げた。「最上百万石」と称される「山形の黄金時代」がここに現出したのである。

長谷堂城を守り抜いた志村光安は、酒田3万石の城主に栄転し、港町酒田の建設と繁栄のために力を尽くした。

上杉氏は米沢30万石に減封されるが、直江兼続は藩政を確立し、米沢の街づくりに大きな功績を残した。

長谷堂地内、国道458号線のかたわらにある「主水塚」は、敵将を惜しみつつ、敵味方の隔てなく手厚く弔った山形人の心を、今も語り続けている。

(片桐繁雄)
‥全国の動き ‥山形の動き

慶長5年(1600年)
5月3日
家康、諸大名に会津出兵を命じる。
5月7日
家康、義光に戦闘態勢を整える事を慫慂。
6月16日
義光、伏見を発つ。
6月18日
家康、会津討伐のため伏見城を出発。
7月2日
家康、江戸城到着。
7月7日
家康より義光へ、奥羽諸将を率いて7月21日に会津出陣するよう指示あり。
7月11日
石田三成、大谷吉継と計り、毛利輝元を家康追討の盟主とする。
7月17日
長束正家、増田長盛、前田玄以ら、家康弾劾13ヵ条を挙げ諸大名の決起を求める。
7月19日
島津義弘、小早川秀秋ら伏見城を攻撃。
秀忠、江戸城を発して、会津に向かう。
7月21日
家康、江戸城を発して、会津に向かう。
義光、小野寺遠江に会津攻め参陣を求める。
7月23日
家康より、会津討伐を当分中止の連絡あり。
7月24日
家康、小山着。西軍蜂起の報到着。
政宗、白石城を攻撃。
7月25日
家康、下野小山軍議。
西上して石田軍攻撃を決定。
政宗、白石城を攻め落とす。
7月29日
三成、佐和山城を出て、伏見に至る。
家康より義光へ、秀忠を残し上洛する旨連絡。
8月1日
鳥居元忠ら戦死。伏見落城。
8月13日
東軍(福島正則、池田輝政)清洲到着。
このころ山形参集の奥羽諸将、帰国。
8月23日
東軍、岐阜城の織田秀信を攻め、落城。
会津に油断なきよう、家康より義光へ指示。
9月1日
徳川家康、江戸城を発って西上。
9月3日
米沢軍議。最上攻略を決定。
9月8日
上杉軍、最上領進攻開始。(米沢市史大年表)
9月11日
上杉軍、畑谷城攻撃開始。(義光書状)
9月12日
上杉軍、畑谷城攻撃開始。(上泉主水書状)
最上軍、畑谷において上杉兵100余を討ち取る。
9月13日
家康、岐阜城に到着。
畑谷落城。城主江口五兵衛父子ら、500余討ち死…最上の城5、6か所明逃、2、30か所降参という。
(簗沢・八ツ沼・鳥屋ヶ森・白岩・野辺沢・山野辺・谷地・若木・長崎・寒河江)
上杉軍先遣隊、長谷堂城外菅沢山に布陣。山形の民衆、不安高まり山中へ避難。
9月14日
家康、関ケ原に着陣。
三成、大垣城を出て関ケ原に移動。
上杉軍、長谷堂城包囲陣を敷く。
義光出陣、須川を越える。政宗、軽挙なきよう忠告。
9月15日
関ケ原の戦い。この一日にて決す。
上杉軍、長谷堂城攻撃【1】。
上杉方の主な武士10余騎を討ち取る。
最上兵、200〜300討死という。
義光、義康を使いとし政宗に援軍を求める。
9月16日
家康、近江に進陣。
最上軍、長谷堂へ進陣。
政宗、留守政景らを援軍とすることを決定。
9月17日
佐和山落城。石田正継ら、自殺。
長谷堂勢、上杉陣を夜討ち、首150余を取る。
上山戦闘、最上方優勢。300余を討ち取る。
9月20日
秀忠、近江草津に至り、家康に会す。
義姫、政景あて、一刻も早い援軍出動を催促。
9月21日
石田三成、捕らえられる。
政宗、援軍の笹谷越えを許可。
義光・義康、連名で弥勒に戦勝祈願。
9月22日
伊達軍、笹谷を越え東沢着陣。馬上150、足軽1000余
9月23日
安国寺恵瓊、捕らえられる。
義光、須川を越えて出陣。悪天候のため戦闘に至らず。25日に景勝が最上へ出馬するとの風評あり。
9月24日
毛利輝元、大坂城を退去。
上杉軍、長谷堂城攻撃【2】。伊達軍も出陣。
9月25日
二本松の上杉軍及び景勝直属鉄砲隊300を最上方面へ増援との情報あり。
9月27日
徳川家康、大坂入城。戦後処理開始。
政宗より政景に連絡「最上の村里みな焼けても苦しからず」(政宗書状)
9月29日
上杉軍、長谷堂城攻撃【3】。城兵、出撃。上泉主水、岩井備中息、松下木工ら、300余人討ち取る。
直江、陣替して焚略作戦に出ることを表明。
9月30日
長束正家、水口城を去って自殺。
両軍に、関ケ原合戦の結果が到着。
10月1日
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3将六条川原で処刑。
上杉軍、長谷堂より退陣。最上軍これを追撃。
1580人を討ち取る。最上討死623。
白岩、寒河江、左沢、長崎、富並などで1500人を討ち取る。
10月2日
政宗、政景あて、援軍の増員を連絡。
10月3日
直江、荒砥城へ帰陣。
10月7日
最上領内の戦闘、このころ終息。
義姫、政景あて礼状を送る。
10月8日
上杉全軍、撤退完了。伊達政景軍この日開陣。
10月15日
最上軍、庄内(上杉領)・仙北(小野寺領)攻略を開始。
10月16日
最上軍、仙北に進攻。有屋峠、法領ケ館合戦。
最上・秋田・由利衆連合軍、大森城攻撃。
10月17日
仙北、大森落城。(秋田最上両家関係文書)
10月20日
上杉勢、谷地に篭城中。(義姫書状)
10月21日
義光、政宗を訪ねて、礼を申し述べる。
帰路、山中にて暴風雨にあう。
10月22日
最上軍(湯沢豊前・鮭延典膳・延沢遠江ら)仙北柳田城を攻略。
10月中
最上軍尾浦城攻撃。松本信濃ほか力戦、落城。

慶長6年(1601年)
4月11日
最上義康勢6000、清水大蔵勢3500、最上川渡河戦、酒田東禅寺城を攻撃。
4月24日
志田修理・川村兵蔵、酒田城を開き降伏。
5月23日(両方)
「出羽奥州の合戦を停止するよう」家康より義光あて指示到来。
連絡を受けて、湯沢・大森の最上陣を開く。
出羽合戦、すべて終息。
8月
最上義光、庄内3郡・由利郡、33万石加増。
上杉景勝90万石削減、米沢に30万石移封。

■最上義光歴史館 特別展
 「東北の関ヶ原 慶長出羽合戦」より
 (2000年/片桐繁雄作成)

直江兼続公所用「六十二間筋兜(『愛』の前立の兜)」 上杉神社所蔵のペーパークラフトです。
実際にかぶることができるフルスケールとテーブルなどに飾る縮小版があります!!
厚紙にプリントアウトして完成させよう!!

※ダウンロードご希望の方は下記の大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会へお問い合わせください!!






ダウンロードご希望の方は大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会へ
  ↓↓↓
天地人・上杉の智将 直江兼続サイト


※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものです。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、信頼されるフリーな百科事典を、それも、質においても量においても史上最高の百科事典を目指して、共同作業で創り上げるプロジェクトです。

ウィキペディア-直江兼続に関するページはこちらです。

ウィキペディア-山形城
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、信頼されるフリーな百科事典を、それも、質においても量においても史上最高の百科事典を目指して、共同作業で創り上げるプロジェクトです。

ウィキペディア-直江兼続に関するページはこちらです。

ウィキペディア-直江兼続
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、信頼されるフリーな百科事典を、それも、質においても量においても史上最高の百科事典を目指して、共同作業で創り上げるプロジェクトです。

ウィキペディア-最上義光に関するページはこちらです。

ウィキペディア-最上義光
慶長出羽合戦
|管理運営 / 最上義光歴史館|当サイトについて