「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦

直江兼続(なおえかねつぐ) 最上義光(もがみよしあき)
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慶長5年(1600年)旧暦9月14日の緒戦。
最上軍300が須川を渡ろうとしたところを、潜んでいた直江軍杉原親憲鉄砲隊の一斉射撃をあびたとされています。

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伊達政宗の命により来援し、遅沢川付近で上杉軍と奮戦討死した伊達家家臣湯の目加賀守の碑。

碑の場所より西方百メートルの地に、周囲30メートル・高さ3メートルのほぼ円形の塚に葬られ、上に五輪塔が建てられました。

長谷堂合戦400周年にあたり、この碑が建立され手厚く供養されています。

(本沢地区振興協議会・本沢郷土研究会より)



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慶長5年(1600年)の秋9月。

上杉景勝の命をうけた米沢城主直江山城守兼続は、2万といわれる大軍で、山形城へ攻め寄せました。
その主力は直江が指揮する精鋭部隊で、旧暦の9月13日に畑谷城を落とし勢いに乗った直江軍の物見役は、早くも菅沢山に入っていました。

時は十三夜、驚いた村の衆は餅を喰わずに逃げたので、「十三夜の餅は早く喰え」と今でも伝えられています。

翌14日には、総大将直江兼続が到着して、本陣を構えて半月。長谷堂城主志村伊豆守勢と史上に残る激しい戦いを繰り返しましたが、頑強な長谷堂城と勇敢な長谷堂勢の抵抗で城を落とすことができず、遂に関ヶ原の西軍敗報を受けて、10月1日深い朝霧の中を全軍引き上げました。

(本沢振興協議会・本沢郷土研究会より)

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ここ長谷堂城跡は、山形城の西南約7キロに位置し、標高227メートル、比高約85メートルの独立丘陵に築かれた平山城で、古くから天然の要害の地でした。

全国きっての智将、会津の上杉景勝の家老直江山城守兼続が、山形の最上義光を攻めた慶長出羽合戦の折、最上軍の将志村伊豆守光安が長谷堂城に拠って、2万数千の大軍の猛攻撃から、半月にわたって凌ぎ城を守りきった城としても有名です。

このことから、長谷堂城は「難攻不落」として戦史に残ることになりました。

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畑谷城の戦いの戦死者を埋葬した場所の一つ。

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慶長出羽合戦
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