TUAD blog/美術館大学構想

▼夏の旅/伊勢の御木曵き

■写真上:桜木町の川曵き。神輿のような木橇が、五十鈴川の浅瀬で出発の木遣を待つ
■写真下:木橇に積まれた檜の年輪を数える、甥の小さな手
(※写真をクリックすると拡大画面で見られます)
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この夏、伊勢神宮で技師を務める兄の案内で、伊勢神宮の『御木曳行事(おきひきぎょうじ)』に参加してきました。
双子の兄は東京の美術大学を卒業後すぐに三重に移り、伊勢神宮の式年遷宮に奉納される神宝の研究と製作に従事しています。
「20年に一度きりのことだし、法被(はっぴ)を用意しておくから一緒に曵こう」と誘われ、「それならば今年、生まれた娘の誕生報告の参拝を兼ねて」と、山形から伊勢まで、飛行機と船を乗り継いで、はじめての家族旅行に出かけました。

『御木曵き』は、あと6年後に迫った伊勢の式年遷宮で使用される、長さ約12mの御用材を、旧神領の町民がそれぞれの町の木橇(きぞり)に積載して五十鈴川を曵いていく行事です。
兄の家族が住む桜木町の木橇がでる7月29日は、今回の御木曵き行事の最終日で、また夏休み中の週末だったこともあり、おかげ横町や宇治橋近くの川岸は、20年ぶりのハレの日を迎えた法被姿の伊勢の人々と、全国から集まった沢山の見物客で埋め尽くされていました。

宇治橋から1キロほど下流の浅瀬から、若衆による木遣音頭に導かれて、木曽で切り出された大きな檜の丸太が五十鈴川をゆっくり溯上してきます。
町民総出で水に浸かり、掛け声とともにお互いの綱を交差させ無邪気に水を掛け合ったりしながら、柱から二股に長く伸びた綱を「エンヤ、エンヤ」と曵いていく。
川岸では町ごとにお弁当やお酒が配られ、久しぶりの再会を楽しむ和やかな人々の輪がありました。曵き手たちの表情は、老いも若きも古来より受け継がれてきた式年遷宮に、地元町民として参加するのだという誇りに華やいで見えます。

僕は、あの私小説に病み疲れた太宰治が書いた、
「海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果ての砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていた」
という印象的な一節を思い出していました。
「私」の物語が、いつか見た祭の光景=共同体の記憶に、再び吸い込まれていくような生の旅路。伊勢の人々は、五十鈴川の流れを身を受けながら、様々な想いを胸に綱を曵き、この20年、そして次の20年に想いを馳せていたに違いありません。

そして、人々の手によって五十鈴川の瀬を乗り越え、参道の玉砂利に積み上げられた檜の丸太は、神宮の宮大工たちの技によって数年をかけて棟持主の建築部材に削られ壮麗なお社となり、後世に繋がれていきます。

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7月29日は猛暑日でした。
生後6ヶ月の娘は日差しを避け、木橇が最後に宇治橋の袂から一気に参道に曵き上げられる頃合いを見計らってやってきて、五十鈴川からあげられたばかりの檜に、兄のはからいでちょこんと触らせてもらったそうです。
次の御木曵き(2027年)で、今は小さな彼女はちょうど20歳。そして、会う度に兄に(僕に?)似てくる伊勢の甥っ子は26歳です。彼の方は、現在の僕たち兄弟のように結婚して、ひょっとすると(彼の父がそうだったように)子どもがいるかも知れません。

伊勢の地で、千年以上も続く技能の継承者として研鑽を積みつつ、早くから家庭を築き、健やかに育んできた双子の兄。そしてその間、東南アジアやパリをあてどなく独りで放浪していた弟。
一卵性双生児として生まれながら、大学卒業を境に、まるで相反する「放浪」と「根付き」の20代を送り、その差異を互いの創作の日々の刺激としてきましたが、今回の旅で、2人の生き方が再び同じルートに重なりあってきたように感じました。

20年後、五十鈴川の畔で『御木曵き』に参加するまでに、2つの家族がそれぞれにどんな時間を重ねていくのか。やけにくっきりとした20年という時の「仕切り」が、身体のどこか、みぞおちの奥あたりにピタリと差し込まれたような、不思議な感覚が残った夏の旅でした。

宮本武典/美術館大学構想室学芸員

画像 ( )
2007.09.17:miyamoto
[2007.09.19]
水岸 (タケタ)

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