TUAD blog/美術館大学構想

▼秋の夜長に思うこと

『Paris, winter, 2004』Takenori Miyamoto
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このブログは大学からの帰宅途中、24時間営業のドトール・コーヒーで書くことが多いです。あのひっきりなしに呼び出しの電話が響くオフィスでは、到底向き合うことはできない自分自身と語り合う、僕にとって貴重な時間です。
1年間過ごしたパリでは、日中は失語症のように黙々といくつかのカフェをi-Bookとともにハシゴし、深夜のメトロで撮影した画像データ(上写真)を編集したり、小説らしきものを書いて過ごしました。
僕のことを最後まで中国人だと思い込んでいたインド人のギャルソンが仕切るカフェ『緑の象』で、「世界」は解決不可能なぐらい複雑で、一人一人が孤独で、それでいてはっきりと人と人が求めあう引力のようなアートの作用を信じることができました。「人が生きていくために、アートは必要なのだ」と、いつも感傷的に思ったものです。
自転車で漆黒の蔵王の丘を駆け下りていく家路の途中で、ついついコーヒーを飲みにいってしまうのは、あの無為な日々の概視感を求めてのことです。
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このところ、打ち合わせの数が膨大なのです。
学生に、同僚に、アーティストに、上司に、朝から晩までとめどなく何かを説明し、その正当性を主張し、主張を覆され、企画書で挽回し、書いたからには実現のために具体的に実働をはじめる頃にはその他の「正当性」が頭をもたげ、、、一週間が運動会の50メートル競争のように過ぎていきます。与えられた職業的クエストを一つ一つ解決するためにのみ生きているかのようです。
かえってこのごろは「世界」がすべてシンプルに見えてくる。力の構造、あらゆる組織に組み込まれるヒエラルキーの骨格、これらをトレースするように与えられた仕事をスムーズに処理していき、そうして徐々に自分の感覚的な世界を失っているように感じてしまいます。
だから、今年の「I'm here.」で出会った岩本あきかずさんや、坂田啓一郎さんといった同世代のアーティストたち、そして西雅秋さんの作品に刻まれた、静かで確かな痕跡を見て、僕は僕自身が失ったものの疼きを感じずにはいられません。
机に向かって、ただまわってくる書類を左から右に流しているだけでも、人は生きていける。そういう安泰な場所から、厳しい現実の中で制作を続ける彼らに憧れを表明している自分に救いのないエゴイズムを感じつつも。

世界はとても謎めいていて、単純な「力」の行使だけでは、決してボジティブな解決には至らないことを再認識するために、僕は仕事帰りに13号線沿いのドトール・コーヒーに立ち寄ります。
深夜の店内には、いつも同じ顔ぶれ、学生のH君やK君がいます。(アルバイトスタッフも、みんな芸工生です)彼らはカフェテーブルを抱きかかえるように身を屈めて、スケッチブックにいったい何を書き付けているのでしょう?(あるいは「宮本さんはしょぼくれた目と無精髭をコスリコスリ、パソコンに何を打ち込んでいるのだろう?」)
「今は近視眼的な学生たちの世界地図が、これから現実のひろがりへとつながっていくように、僕がこの大学でやるべきことは何か?」
ここで感じることのできるそんな不遜な使命感もまた、明日を頑張れるエネルギーとなります。僕も彼らと同じように、相変わらず、同じ私的世界を堂々巡りしているだけなのかも知れません。これは希望的観測ですが。

『西雅秋-彫刻風土-』展開催まであと10日です。サポートする側のポテンシャルが試されるのはこれから。「秋の夜長」に頼る日々が続きます。

宮本武典/美術館大学構想室学芸員
画像 ( )
2006.10.16:miyamoto

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