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最上義康(もがみよしやす)

 天正三年(1575)~慶長八年(1603)※慶長十六年(1611)説あり 最上義光の嫡男。慶長出羽合戦の際には、父の命を受け伊達政宗のもとへ救援要請に赴き、援軍派遣を了承された。従兄弟の政宗とは仲が良かったと伝わる。上杉軍への追撃戦では、最前線で戦い苦境に陥っていた義光を救う活躍をした。もともと父とは良好な関係であったが、家臣の讒言や弟・家親と徳川家康との関係などから疎遠となり、義光から高野山への退去を命ぜられた。その道中、土肥半左衛門らが率いる鉄砲隊に撃たれ負傷し、自刃した。
2017.01.24:mogapro:[ ○息子・娘 ]

最上家親(もがみいえちか)

 天正十年(1582)~元和三年(1617) 最上家12代当主。最上義光の二男。父の命により徳川家康に近侍し、家康の「家」の字を賜り家親と名乗った。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って上田城攻めに参加した。慶長十九年(1614)に父・義光が病死するとその跡を継ぐ。大坂の役の直前、大坂方に内通の疑いがあったという弟の清水光氏を攻めて自刃させ、大坂の役では、江戸城の留守居役を務めた。元和三年(1617)に36歳の若さで急病死した。
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