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禧久姫(きくひめ)

 生年不明~寛文四年(1664) 最上義光の四女。最上家家臣で東根城主・東根景佐の嫡男・親宜に嫁ぐ。最上家改易に伴い、夫とともに徳島にて暮らした。
2017.02.21:mogapro:[ ○息子・娘 ]

竹姫(たけひめ)

 天正十二年(1584)~寛永三年(1626) 最上義光の三女。最上家代々の重臣である氏家家に嫁ぐ。はじめ氏家光氏の子である尾張守(名は不詳)に嫁ぐが、若くして亡くなってしまったため、弟の親定に再嫁したという。最上家改易に伴い、夫とともに長州萩にて暮らした。
2017.02.19:mogapro:[ ○息子・娘 ]

駒姫(こまひめ)

 天正七年(1581)~文禄四年(1595) 最上義光の二女。東国一の美少女との評判が高く、時の関白・豊臣秀次が側室に望んだため、京に上ることとなった。京に到着してまもなく、秀次が謀反の疑いにより高野山で自害させられた。秀次の身内一族や近臣も捕らえられ、まだ実質的に側室となる前であった駒姫も処刑された。父・義光の憤りと悲しみは深く、のちに関ヶ原の戦いで徳川家康に味方する一因になったといわれている。
2017.02.16:mogapro:[ ○息子・娘 ]

松尾姫(まつおひめ)

 天正六年(1578)~慶長十一年(1606) 最上義光の長女。義光に対抗していた国人領主連合「天童八楯」の有力武将であった野辺沢満延を懐柔するため、その嫡子又五郎と婚約することとなる。これにより、満延は義光に味方するようになったため天童八楯は瓦解した。のちに野辺沢康満(又五郎)と正式に夫婦となるも、29歳の若さで亡くなったという。
2017.02.13:mogapro:[ ○息子・娘 ]

大山光隆(おおやまあきたか)

 慶長七年(1602)~寛永二年(1625) 最上義光の六男。内膳正。元和元年(1615)に2万7千石にて庄内大山(尾浦)城主となり、大山姓を名乗った。妻は楯岡満茂の二女である於陳女郎。元和八年(1622)最上家改易により広島藩浅野家に身柄を預けられ、その数年後に死去。
2017.02.02:mogapro:[ ○息子・娘 ]

上山光広(かみのやまあきひろ)

 慶長四年(1599)~寛永四年(1627) 最上義光の五男。のち義直(よしなお)。元和二年(1616)に2万1千石にて上山城主となり、上山姓を名乗った。最上家改易により福岡藩黒田家に預けられ、数年後に自害したといわれる。
2017.01.30:mogapro:[ ○息子・娘 ]

山野辺光茂(やまのべあきしげ)

 天正十六年(1588)~寛文四年(1664) 最上義光の四男。のち義忠(よしただ)。慶長出羽合戦後に父・義光の命により山野辺家の名跡を継ぎ、山野辺城主となった。山野辺の城下町整備や治水事業を行うなど、優れた行政手腕を発揮して領民に慕われた。兄・家親が急死し、その子家信が藩主を継いだが、家信は若年ゆえに国政を執るには力不足で、光茂を当主に推す声が強くなった。このため家臣団がまとまらず、最上家改易の原因となった。改易により光茂も岡山池田家に預けられた。のちに水戸藩の家老となり、徳川(水戸)光圀の教育係を務めた。
2017.01.28:mogapro:[ ○息子・娘 ]

清水光氏(しみずあきうじ)

 天正十年(1582)~慶長十九年(1614) 最上義光の三男。義親(よしちか)、氏満(うじみつ)とも。最上氏の一族であった清水義氏の養子となり、清水家を継いで清水城主となった。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦い、その後の庄内攻略戦では、叔父の楯岡光直とともに総大将を務めた。若い時に豊臣氏の人質となっていたことから、大坂の役に際して豊臣方への内通を疑われたという。このため兄の最上家親により清水城を攻められ、嫡子・義継ともども自刃した。
2017.01.27:mogapro:[ ○息子・娘 ]