目加田経営事務所

▼【四知(天知、地知、我知、人知)】

中国・後漢時代の宰相に楊震(ようしん)という人物がいます。楊震の部下の王密(おうみつ)が地方の長官に出世し、そのお礼にと深夜、楊震を訪ねてお礼を渡そうとしました。楊震は固辞しますが、王密は「夜も遅いし、だれも見ていません。だれにもわかりませんから、安心して受け取って下さい」とお礼をしようとします。
その時、楊震が言った言葉が「誰にも分からないなどとどうして言えるのか。天が知っている。地が知っている。私が知っている。あなたも知っているではないか」と断りました。
王密は自分の非を恥じて引き下がったということです。そこから四知(しち)とは誰にも知られずに悪事を働いても必ず明らかになる。悪いことはするなという教訓が残りました。
中でも当事者である「私が知っている」というところがすごいと思います。

楊震という人は、代々名門の出で、父親は後漢を開いた初代皇帝の光武帝から仕官を薦められてもそれを断り、野にいて晴耕雨読に明け暮れたと言います。
楊震も父親同様の多くの推薦を断り続けていましたが、後漢6代皇帝安帝のときに、なぜか、時の大将軍晁ォ(とうしつ)の推薦で50歳にして初めて中央に登り役人になります。根っからの潔癖症ともいうべき性癖から、不正を見逃すことができずに、どんどん摘発し、処罰をしていったのです。楊震を恨み骨髄の思いで見ていた腐敗幹部におとしいれられ、役職から追放されて、洛陽の都の門をでたところで服毒自殺をしてしまいます。70歳でした。葬儀をするために故郷に向かっていた遺族に待っていたのは棺を道に放置して立ち去れという命令です。不正を嫌った楊震を恨みに思っていた中央の幹部の仕業ですが、遺族になすすべもありません。放置された棺が無事に葬儀の上埋葬されるまで1年という時間が必要でした。後漢第7代皇帝の順帝が即位して葬儀を許されたのです。

人が見ていなければ何をしてもよい。つい魔が差すことがあるでしょうが、自分という人が見ているよという四知の教えはとても新鮮です。頭では分かっている事ですが、いざという時、日常で無意識に行動できるようにあらためて認識したいと思います。
2011.11.10:stepup

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