「イ-ハト-ブ葬送曲」…組曲~“村八分”(作詞作曲・宮沢賢治)

  • 「イ-ハト-ブ葬送曲」…組曲~“村八分”(作詞作曲・宮沢賢治)

 

 「まず最初に確認しておきたいのですけれども、これは選挙公報が未配布であったことに対する個人的な苦情を述べたものではありません。公共の利益を思って陳情いたした次第です」―。先の市議選(7月24日)の際、選挙公報が未配布だったとして、花巻市内在住の翻訳家、菊池賞(ほまれ)さんが地方自治法第199条第6項に規定に基づき、その原因と実態の監査を首長に求めた陳情の採決が9月定例会最終日の21日に行われた。議長を除く25人が不採択を支持し、採択すべきとしたのはひとりだった。

 

 「これこそが村八分の典型ではないか」―。陳情の成り行きを見守ってきた私は取材ノ-トの速記録を詳細に点検しながら、現代版“村八分”がまさに宮沢賢治が名づけた「イ-ハト-ブ」(夢の国=理想郷)の中でまかり通っている事実に驚愕した。不採択を一貫して主導してきた共産党花巻市議団の櫻井肇議員の発言要旨(9日開催の総務常任委員会)をできるだけ、忠実に以下に再現したい。

 

①「要するにこういう場合、(選挙)公報が来ていないということになれば、区長や配布者に対して問い合わせをするわけですね、普通は。その方々にお確かめになったでしょうか」

 

②「未配布と言いますが、私は一方的に未配布であると断定できる根拠を持ち合わせていません。区長の方は配布したと言っているわけですよね。真っ向から意見が対立するわけです。そうした場合に客観的かつ公平に見て、一方的に未配布であったというふうに断定するのはいかがなものか」

 

③「陳情者の言う地方自治法の第199条第6項ですが。これに基づいて、監査を市長はしないだろうと…。推測して申し訳ないのですが。なぜなら説明の中で陳情者は、この件によって、私は不利益を被っていないと言っている。そうである以上、監査を請求するという理由はないと思います。したがって、否決する以外にはないというのが私の主張です」(共産党員が市長の”内心”を忖度するという驚天動地!そして、「公益」という主張をあえて、”私益”なるイメージにでっち上げようとする薄汚さよ!)

 

 総務常任委に出席した市選管側が、菊池さんへの未配布の事実と過去にも同じミスがあったことを認めたにもかかわらず、まるで意図的に陳情者側の“自己責任”に問題をすり替え、陳情趣旨をねじ曲げようという底意が透けて見えるではないか。コロナ禍の中でも散見された現代版“村八分”事件が目の前に去来した。ウキペデァはこう説明している。「村落(村社会)の中で、掟(おきて)や慣習を破った者に対して課される制裁行為であり、一定の地域に居住する住民が結束して交際を絶つことである。転じて、地域社会から特定の住民を排斥したり、集団の中で特定のメンバ-を排斥(いじめ)したりする行為を指して用いられる」

 

 では、残りの「2分」とは何か―。火事の消火活動と葬式の世話を指し、この二つは共同体に累(るい)が及んだり、祟(たた)りを恐れるために除外しただけのことで、逆に“村八分”という排他性の恐ろしさを強調している。そういえば、賢治自身も寒行修行中にまちの人たちから石を投げつけられたというエピソ-ドが語り継がれている。本日「9・21」は賢治没後88年の命日にあたる(生年なら、縁起の良い米寿)。陳情審査の経過報告を議会中継で聞きながら、私は賢治に仮託した「イ-ハト-ブ葬送曲」をひとり口ずさんでいた。最後に総務常任委員会で、採択賛成の意見陳述をした羽山るみ子議員(はなまき市民クラブ)の発言(要旨)を、後世に伝え残すべき”告別の辞”として、ここに再録しておく。(陳情審査の詳しい経過については、9月9日付当ブログ参照)

 

 

 「今回、選挙公報の未配布がはっきりとしている方は1名だということですが、わずか1名であっても未配布はあってはならないことであり、だからこそ選挙の公平性を担保するために、公職選挙法にも『全戸配布』が明記されているわけです。『たった1名』という数に矮小化せず、逆にその1名の方の権利を守るという認識こそが、民主主義の原則だと思います。さらに、今回の陳情の趣旨は現場で実際に公報の配布に携わった人の責任を問うというものではなく、逆によくありがちな、末端の現場に責任を押し付けるといういわば、“トカゲの尻尾切り”を避けるため、陳情者は『内部統制』という言葉で、危機管理の必要を訴えたものだと理解します」

 

 

 

 

(写真は陳情にたったひとり賛成の起立をした羽山議員。上段左端が櫻井議員=9月21日午前、花巻市議会議場で。インターネットの議会中継の画面から)

 

 

 

 

《追記》~「三無主義と散骨の風景」

 

 賢治の命日の21日、ウエブマガジンプロメテウスを主宰する方から、花巻出身の宗教学者、山折哲雄さんの著書に言及した私のブログ記事を引用したという連絡があった。忘れていた記憶がふと、よみがえった。賢治忌に思いをはせながら、その記事を以下に再録したい。

 

 

 葬式はしない。お墓は作らない。遺骨は散骨する(残さない)」―。僧職の資格を有する山折さんがこうした“三無主義”を公に口にするようになった時は正直、面食らった。「兄貴があっちこっちで吹いて回るもんだから…」と現住職の弟さんも苦笑いを隠さなかった。そりゃ、そう。「檀家追放」宣言に等しいからである。でも、私はいつしかこのしなやかな「型破り」に賛同したくなっていた。英語教師だったころの恩師の面影がよみがえったのである。『わたしが死について語るなら』と題する著作の中で、山折さんは宮沢賢治の文章の一節「われら、まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」(『農民芸術概論綱要』)―を引用して、こう記している。 

 

 「死んだときは、私は故郷の寺(専念寺)の墓に入るのではなく、『散骨』(さんこつ)にしてほしいと望んでいます。散骨というのは自分の遺体が、焼かれたあと、その骨灰を粉にして自然の中にまくということです。海や山や川にすこしずつまいてもらえればそれでいいと思っているのです。…妻と私のどちらか生き残った方が、ゆかりの場所をたずね歩き、灰にしたのを一握りずつまいて歩く。遺灰(いはい)になったものはじつに浄(きよ)らなものです。やがて土に帰っていくことでしょう」―。児童向けと、山折さんが好んで使う「末期高齢者」(年長者)向けに書かれたこの本は87歳になる宗教学者の文字通り、型破りの”遺言状”なのかもしれない。

 

 

 

 

 

2022.09.21:masuko:[ヒカリノミチ通信について]

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