花崎皋平さま、長い間のご無沙汰をお許しください

  • 花崎皋平さま、長い間のご無沙汰をお許しください

 

 

 2期目の最終議会を終えて帰宅した(6月)18日午後、郵便受けに一冊の本が入っていた。「もしや」と思ったが、やはりそうだった。とげとげしい議会の応答の疲れをいやすためにと予約しておいた本である。『チュサンマとピウスツキとトミの物語 他』(未知谷刊)―。著者は北海道小樽市に住む哲学者で文筆家の花崎皋平(こうへい)さん(87)。タイトルの冒頭には「長編物語詩」とあった。アイヌ民族に寄り添い続け、時にはシャモ(和人)である己の立場に逡巡(しゅんじゅん)し、それでも一貫してぶれない生き方を学び続けてきた…それはまるで「人間賛歌」を謳った一大叙事詩のような趣だった。

 

 物語詩は文化人類学者でもあるポ-ランド人、プロニスワフ・ピウスツキ(1866-1918年)の数奇な来歴から始まる。1887年、ロシア皇帝アレキサンドル3世の暗殺未遂事件に連座したとして逮捕され、サハリン(樺太)へ。この島はチェ-ホフの『サハリン島』で知られる流刑地だった。ピウスツキはここでコタン・コロ・ニシパ(村おさ)のバフンケと知り合い、アイヌの言語や文化、民俗を研究。さらに、蝋管(ろうかん)蓄音機による肉声の録音に成功した。そのかたわら、先住民族の自助・自立・自治を訴えた「樺太アイヌ統治規定草案」を起草し、知事に提案するなどアイヌ研究に没頭した。こんな矢先、ピウスツキはバフンケの姪、チュサンマと恋に落ちる。ピウスツキ37歳、チュサンマ25歳。やがて、二人は一男一女に恵まれた。

 

 国際情勢は風雲急を告げていた。日露戦争(1904-1905年)で日本が勝利したことで、当時、ロシアとプロイセン、オ-ストリアに分割統治されていた祖国ポ-ランドにも独立の機運が高まっていた。妻子を連れての帰国を求めるピウスツキに対して、おじのバフンケは遠い異国への移住に首を縦に振らなかった。ピウスツキはひとり去り、これが永遠(とわ)の別れとなった。第一次世界大戦の終結を前にした1918年、ピウスツキはパリのセ-ヌ川に身を投じて自死した。

 

 「トミの物語」はこの文脈に重なるようにして始まる。のちに著者の妻となる「(村山)トミ」さんは1940年、クナシリ島(現北方領土)のルヤベツ村に生まれた。父は腕のいいアイヌの漁師で、7人兄妹の末っ子。敗戦で対岸の根室標津(しべつ)へ移った。「チュサンマさんと私は似ていると言われます」というトミさんの独白はこう続く。「内に思いを秘めた強いまなざしを持ち/私は 一羽で 空を舞う鷲/チュサンマさんは 原野に咲く一本の静かな黒ユリ/長じて ポ-ランド人と暮らす/私は 日本人の男に恋されて一緒に」―

 

 やがて、世は戦乱のさ中に…。ベトナム戦争から足元では伊達火力発電所や泊原発の建設反対運動、そしてアイヌ民族の人権闘争…。そんな中で、北海道大学の教員の職を辞した著者との出会いが待っていた。著者自身の作と思われる「そんなことなんでもないよ」と題する詩篇が文中に挟まれている。「下宿屋の2階四畳半/向き合っていた/「わたしアイヌなの」/「そんなことなんでもないよ」/よく言えたものだ/無知ゆえの/気休めのセリフだった/彼女は怒った/「わたしがどんな思いで言ったか あなたにはまったくわかっていない」/そのとおりだった/いったん口から出たことばを/出なかったことにすることはできない/この言葉を一生背負い/ひたいに『差別者』という烙印を自分で捺して/歩かねばならなかった」

 

 花崎さんと私は冒頭に掲げた写真(炭鉱災害)がきっかけで出会った。37年前の1981(昭和56)年10月16日、北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)でガス突出事故が発生。犠牲者93人という北海道で戦後最悪の事故となった。「エア-が弱くなった。気温が上がっているので…。エア-が来なければ終…」と書かれた遺書とともに最後の遺体が収容されたのは、事故から163日目だった。この事故が引き金となってヤマは閉山し、のちの財政破綻につながった。「本日の質草」という連載を私たち取材班は始めた。鼻先にかけてきた老眼鏡を外し「これで何とか」、そうかと思えば愛用の釣り竿を差し出し「50円が急に入用になったもんで」…。煙突から勢いよく煙が噴き出ている炭住に取材に出向くと、家の中はもぬけの殻。「夜逃げの常とう手段さ。居留守を使ってな」と隣家の男はニヤッと笑った。

 

 ある時、花崎さんから連絡が入った。温厚な語り口でこう話した。「夕張での悲惨な実態に無知だった。哲学者の端くれとして恥ずかしい。あなたの記事を読んでいると、音を立てて崩れ落ちる地域社会の姿が手に取るように分かる。ぜひ、現場を案内してほしい」―。当時、夕張新炭鉱には「本工」(正社員=直轄)のほか、掘進などの難作業には「組夫」と呼ばれる下請け作業員が従事していた。事故後に発生した坑内火災が救出の行く手を妨げていた。延焼を防ぐという名目で坑内に川水が注ぎ込まれた。坑内にはまだまだ59人が残されたままだった。生きながらの“死亡宣告”だった。斜めに傾いた組夫長屋ではヒロポンを打ちながら、仲間の救出に昼夜を徹したイレズミの男がいた。「フィリピンのスラム街よりひどい」と花崎さんは絶句した。ひと言も聞きもらすまいと身を乗り出した。この時のレポ-トは月刊誌に掲載され、大きな反響を呼んだ。

 

 アイヌ語に「アイヌ・ネノ・アン・アイヌ」という言葉がある。「アイヌ(人間)の中のアイヌ(人間)」という意味になろうか。最後に搬出された炭鉱マンの遺体は幼児のように小さかった。花崎さんと私は身じろぎもしないで手を合わせ続けた。目の前の遺体に”素”(す)の人間を見たような気がした。あの時以来、私は無意識のように花崎さんの背中を追い続けてきたのかもしれない。『チュサンマとピウスツキとトミの物語 他』の終章近くに花崎さんはこう書きつけている。「チュサンマもトミも 晩年は世に隠れ/孤独に 静かに 去っていった/…流れ星 一瞬光って一瞬消える/冬の夜空に見えた いのちの姿/女が男を愛したとき/男が女を愛した時/その愛は消えない…」ー。この文章を読みながら、私は漆黒の闇を照らすキャップランプの灯りにいのちの輝きを見たように思った。

 

 人生一直線のこの哲人は、こうして幾多の著作を通じて、いつも救いの手をさし伸べてくれた。魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちを追い払う巫術(ふじゅつ)もどきもこっそりと伝授してくれた。なんと恵まれた果報者だったことか。文中に「遠山のかあさん」や「サキフチの傘寿」などとして登場するのは、北海道は浦河町姉茶に住む遠山サキ・フチ(おばあさん)のこと。アイヌ語のあれこれや野草の見分け方などを教えてもらった、私たちにとってもかけがえのないアイヌのお師匠さんである。

 

 

(写真は坑内からの救出作業に従事するする真っ黒い顔のヤマ男たち=記録集『よみがえれ炭鉱の街 夕張』から)

 

 

 

《追記》~沖縄慰霊の日(沖縄全戦没者追悼式)

 

 73年目を迎えたこの日23日、浦添市立港川中学3年、相良倫子さんの平和の詩「生きる」がニライカナイ(常世の国)の風に乗り、列島の上空を超えてアイヌモシリ(人間の静かな大地)へと届けられた。以下に全文を転載する。花崎さんは1990年春、読谷村に約3カ月間滞在し、琉球民族とアイヌ民族の歴史と文化を集めた資料集『島々は花綵(はなづな) ヤポネシア弧は物語る』の編纂に当たった。『生きる場の哲学』や『生きる場の風景』など「生きる」をテーマにした著作も多い。沖縄慰霊の日のこの日、南の島の梅雨は明けた。

 

 

私は、生きている。

マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、

心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、

草の匂いを鼻孔に感じ、

遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

 

私は今、生きている。

 

私の生きるこの島は、

何と美しい島だろう。

青く輝く海、

岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、

山羊の嘶き、

小川のせせらぎ、

畑に続く小道、

萌え出づる山の緑、

優しい三線の響き、

照りつける太陽の光。

 

私はなんと美しい島に、

生まれ育ったのだろう。

 

ありったけの私の感覚器で、感受性で、

島を感じる。心がじわりと熱くなる。

 

私はこの瞬間を、生きている。

 

この瞬間の素晴らしさが

この瞬間の愛おしさが

今と言う安らぎとなり

私の中に広がりゆく。

 

たまらなく込み上げるこの気持ちを

どう表現しよう。

大切な今よ

かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

 

七十三年前、

私の愛する島が、死の島と化したあの日。

小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。

優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。

青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。

草の匂いは死臭で濁り、

光り輝いていた海の水面は、

戦艦で埋め尽くされた。

火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、

燃えつくされた民家、火薬の匂い。

着弾に揺れる大地。血に染まった海。

魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。

阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 

みんな、生きていたのだ。

私と何も変わらない、

懸命に生きる命だったのだ。

彼らの人生を、それぞれの未来を。

疑うことなく、思い描いていたんだ。

家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。

仕事があった。生きがいがあった。

日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。

それなのに。

壊されて、奪われた。

生きた時代が違う。ただ、それだけで。

無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

 

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。

悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。

私は手を強く握り、誓う。

奪われた命に想いを馳せて、

心から、誓う。

 

私が生きている限り、

こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。

もう二度と過去を未来にしないこと。

全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。

生きる事、命を大切にできることを、

誰からも侵されない世界を創ること。

平和を創造する努力を、厭わないことを。

 

あなたも、感じるだろう。

この島の美しさを。

あなたも、知っているだろう。

この島の悲しみを。

そして、あなたも、

私と同じこの瞬間(とき)を

一緒に生きているのだ。

 

今を一緒に、生きているのだ。

 

だから、きっとわかるはずなんだ。

戦争の無意味さを。本当の平和を。

頭じゃなくて、その心で。

戦力という愚かな力を持つことで、

得られる平和など、本当は無いことを。

平和とは、あたり前に生きること。

その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

 

私は、今を生きている。

みんなと一緒に。

そして、これからも生きていく。

一日一日を大切に。

平和を想って。平和を祈って。

なぜなら、未来は、

この瞬間の延長線上にあるからだ。

つまり、未来は、今なんだ。

 

大好きな、私の島。

誇り高き、みんなの島。

そして、この島に生きる、すべての命。

私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

 

これからも、共に生きてゆこう。

この青に囲まれた美しい故郷から。

真の平和を発進しよう。

一人一人が立ち上がって、

みんなで未来を歩んでいこう。

 

摩文仁の丘の風に吹かれ、

私の命が鳴っている。

過去と現在、未来の共鳴。

鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。

命よ響け。生きゆく未来に。

私は今を、生きていく。

 

 

 

 

 

 

2018.06.22:masuko:[マスコラム]

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長見有人とという大阪市に住む66歳のものです。1969年ごろ花崎皋平さんの背中を見ながらデモをしたことが何度かありました。
 昨年、原田貴久枝さんと大阪大学で講演されたときに40何年かぶりにご挨拶ができて感激しました。
 1981年の北炭夕張のガス突出事故のことは、海外にいたために知りませんでした。私の実家は千歳市なのですぐお隣で起きた大悲劇なのに。
 増子さんの力強い文章に敬意を表させていただきます。無断シェアについてはお許しください。
2018.08.02:長見有人:[編集/削除]

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