雪のかけっこ

  • 雪のかけっこ

 大好きな作家の一人である池澤夏樹さんの座右の書の一冊が『萱野茂のアイヌ語辞典』だということを最新刊の『終わりと始まり』を読んで知った。わたし自身、文字(活字)に疲れた時などはこの辞書を開くことにしている。アイヌ民族には文字がなかった。語り言葉にはウソが少ないということなのだろうか、何かこころがす~っと洗われるような気分になるのである。アイヌ民族出身の萱野茂さん(故人)はアイヌ文化研究者として知られ、民族としての初めての国会議員も務めた。アイヌ語に囲まれて育った、その言葉の集大成がこの辞典である。

 暖冬気味だった日本列島にもやっと、本格的な冬将軍がやってきた。雪払いのことを考えると少し憂鬱になるが、こんな時こそがこの辞典の出番である。「雪」のことは「ウパシ」。語源分析すると「ウ(互いに)・パシ(走る)」となり、「雪は天からアイヌの村に競争して遊びに来ると考えていた」と解説されている。「そうか、雪たちのかけっこだったのか」と思うと、気分も晴れてくる。今年は東日本大震災から丸5年。で、津波のことは「オレプンペ」とある。「オ(それは)・レプ(沖に)・ン(住む)・ペ(者)」という意味で、アイヌ民族は「津波は沖に住んでいて、しばしば陸地に来る者」と考えていたのだという。

 アイヌ語には直接「自然」を意味する言葉はない。強いて当てはめるとすると「カムイ」(神)ということになろうか。アペフチカムイ(火の神)、キムンカムイ(山の神)、ワッカウシカムイ(水の神)、コタンコロカムイ(集落の神)、チセコロカムイ(家の神)、シランパカムイ(樹木の神)…。アイヌ民族にとっては森羅万象(自然)はすべてがカムイ(神)なのであろう。だから例えば、疱瘡(天然痘)などの流行病をまき散らして歩く疫病神は「パヨカカムイ」(徘徊する神)と呼ばれ、ずばり「悪霊」には「ウエンカムイ」(悪い神)というちゃんとした名前が授けられている。病気もまたカムイなのである。

 「シャモ(日本人)は頭で考えるのだろうが、アイヌは違う。こころで考えるのさ」―。アイヌ民族の友人から謎かけ問答をかけられたことがある。きょとんとしていると、彼は「ヤイコシラムスイエ」というアイヌ語を教えてくれた。「ヤイ(自ら)・コ(に対し)・シ(自分の)・ラム(こころを)スイエ(揺らす)」という意味で、日本語の「考える」に相当する。「シャモは頭でばっかり考えるから、ろくなことしか考えつかないのさ」。あの時の友人の痛烈な一撃がまだ、頭の片隅にこびりついている。そして、今でも「こころを揺らして考えなくちゃ」と思う時がある。

 池澤さんは自著の中で「オリキクッコロ」というアイヌ語を紹介している。萱野辞典によれば「帯を高々と締める。何かしようとする時に、その用意をしている様子。女性に対してのみ使う」と解説され、「母が帯を高々と締めて、さっとばかり外へ飛び出した」という例文が添えられている。思わず、クスッと笑った。物陰に隠れた、女性たちのあの懐かしい仕草…。私たちの世代にとっては見覚えのある光景だったからである。池澤さんはこう書いている。「かつて人間にとって生きることはこんなにも具体的であったかと思った。ものの重さや質感、匂い、生活の一場面、不幸と幸福がそのまま一つの単語に出ている」

 作家の石牟礼道子さんの代表作『苦海浄土』の中に漁師が語った、こんな一節が出てくる。「あねさん、魚(いお)は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」。ここにも人間の力の及ばないものを「カムイ」(神)として敬うという精神―「折り合い」のこころが息づいているように思う。萱野辞典を石牟礼さんにプレゼントしたことを池澤さんは自著の中で明かしている。そして、池澤さん自身にもアイヌ民族を題材にした『静かな大地』という大著がある。


(写真は私にとっても手離せない萱野辞典。まさに百人力のカムイである)
2016.01.20:masuko:[身辺報告]

この記事へのコメントはこちら

※このコメントを編集・削除するためのパスワードです。
※半角英数字4文字で入力して下さい。記号は使用できません。
今日 187件
昨日 505件
合計 448,613件