最上川リバーツーリズム(最上エリア)

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本合海は、最上川の中流、八向山の白い壁にぶつかって西に大きく流れを変える場所。東からは、新田川が合流する。この2つの川が合うところ、それが「合海」。慶長年間に領主清水氏が、河岸の発展を図り、舟扱いに慣れた合海の人々を彼の地に移した。そこは現在の大蔵村の合海になるが、元々の本家の「合海」が「本合海」を称するようになったというのが、本合海の地名の由来である。

義経記によれば「矢向の大明神を伏拝み奉り、相川の律に著き給ふ」とあり、源義経が平泉に逃れる際、最上川をさかのぼり本合海の地に上陸した。本合海は、最上川・新田川の合流点(相川の律)として出羽・陸奥を結ぶ要衝の地であった。

そして、松尾芭蕉も本合海を訪れた。新庄に2泊した後、本合海から最上川を下り、羽黒山に向かったという。曾良の『随行日記』には新庄や本合海のことについて詳しく記されている。また、正岡子規、幸田露伴、大橋乙羽も本合海を訪れた。
八向山の断崖(八向楯)の中腹は、平安時代、京都政府から従五位下を与えられた矢向神社があり、国を鎮める神として、また最上川の舟人を守る神として広く信仰されてきた。矢向楯の跡がある。尾根筋を二重、三重に断ち切り、本丸・二の丸・三の丸の郭を区画したという。

新庄市大字本合海字本合海
(芭蕉乗船の地)右岸