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▼山形新聞の日曜随想

昨日22日の日曜随想は私の担当でした。
まだお手元にある方はお読みくださーい。


こちらは先月分の随想です。

「雑草を抜きながら」

2006年に家を建てて以来、
我が家の敷地は見事な「雑草園」になっている。
住み始めた当初は
「勝手にいろんな植物が生えてきて、
何もしなくても緑でいっぱいになったなぁ」
とよろこんでいのだが、
実家の両親や弟から
「何で草取りしないの?」
「もう少しきれいにしたら」と、
怒られるように言われて気がついた。
草花と雑草は違うらしい。

りっぱなバラとは言わないまでも、
あるいは家庭菜園が無理ならば、せめてハーブが望ましく、
オオバコやスギナ、たんぽぽなどは草取りの対象だと言うのだ。
なぜ?同じ命なのになあと思う。
雑草と呼ばれる植物たちにもそれぞれ名前がついているのだろうし、
中には可愛らしい花をつけるものもある。

近頃「生物多様性」という言葉も聞こえるようになり、
これは地球全体には様々な生物が存在し、
それによって生態系のバランスが取れていることを指している。
あらゆる生命の大切さを願う響きがあって、とても共感できる言葉だ。

そんな私を見て弟が
「姉貴が環境問題に関心があって、
どんな生き物も大事にしたい気持ちは、身内のオレはよく分かる。
だけどさ、家の外観って住んでいる人の顔なんだよ。
世間はあれをだらしないとしか見ないんだよ」
残念な姉と言いたげに首を振る弟の同情に応えるべく、
ちまちまと手入れを始めるようになった。

職業上しかたない場合は別として、
一個人の庭なら地球に除草剤をまくことは避けたいもの。
一本一本素手で抜き始めると視界がぐんと地面に近くなり、
見るとダンゴムシや派手な色彩の毛虫、
アリなど小さな命の世界がそこにあった。

ぼくらはみんな生きている〜♪と、
「手のひらを太陽に」のフレーズが自然と口からついて出る。
やなせたかし氏の作詩で、いろんな虫だって、
みんなみんな友達なんだという歌だ。
全部の歌詞を知りたくなって調べてみると、
なんと3番に登場するのは
スズメとイナゴとカゲロウだった。
かなしいかな、
一部の山形県民にとってイナゴは友達ではなく食料だ・・・。

食べる行為が加わると、命の話はいささか複雑になってくる。
蚊も殺せないような人が牛肉が大好きだったり、
ヘビはきらいだけどウナギは好物だとか、
人によって「尊さの基準」はさまざまだ。


私なりの折り合いのつけ方は、
食べ物になる動植物は自分の体にとっての適量を吟味して、
無駄にせず、命のリレーとしていただく意識を持つこと。
調理をするときから「ありがとう」の気持ちを持つことだ。
忙しいときは間に合わせのものを買うこともあるし、
できる範囲ではあるけれど。


10代の頃、体が弱くて内向的だったため、
いじめほどではないが仲間はずれになることが度々あった。
病気の回復とともに、反動が出たのか逆の立場をとったこともある。
こうした体験で得た気付きは、
無視されるのもするのも、認められないことも認めないことも、
悲しく辛い感情が心に残るということだ。

それは対人間だけでなく、多くの生物においても同様だ。
微生物に始まって両生類も爬虫類も、
また虫には虫の、鳥には鳥の役割や人生(生き様?)がある。
むやみに毛嫌いし、殺す行為は、
宇宙の倫理に対する謙虚さが足りない気がして胸が痛む。
人間界だけの都合を優先させれば、
必ずどこかで声なき物達が犠牲になり、
民家に熊が現れるような出来事も起きてくる。

原因と結果の法則は地球の外にでることはない。
すべてこの星で解決していかなければならないのだ。

生物多様性とは、あらゆる種族保存の維持だけではなく、
進化と絶滅のプロセスが健全に進むための取り組みとも解釈できる。
人間が進化と絶滅のどちらに分類されるのかは分からないし、
最終的には地球自体が決めるはず。

「地球にやさしく」というキャッチフレーズが使われるけれど、
実際は人間を受け入れている「地球がやさしい」のではないだろうか。

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