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▼あるがまま

毎月1回の「論語に学ぶ会」。
未熟者なので、原文などはさっぱり分かりませんが、
通釈と講師の高野先生の解釈付きで、どうにか学ばせていただいております。


堯日第二十

507〔原文〕堯日、咨爾舜、天之暦数在爾躬。允執其中。四海困窮、天禄永終。
舜亦以命禹。

〔読み下し〕堯(ぎょう)日く、咨(ああ)爾(なんじ)舜(しゅん)、天の暦数(れき
すう)爾の躬(み)に在り。允(まこと)にその中(ちゅう)を執(と)れ。

[通釈]
堯が帝位を禅譲するに当り次のように云った、「ああ舜よ!天命が汝に下ったようだ。
帝位に就いたならば、中庸の道を堅く守り通して行け!万一中庸の道を踏み外し、
天下万民に困窮を強いるようなことがあれば、天が汝に与えた幸運は永久に途絶えるであろう」と。
舜も亦禹に帝位を禅譲するに当り、堯から訓示されたと同じ言葉を以て申し送った。


この一文に対する高野先生の解釈の中で、

 先ず問われるのは
 「如何に在るべきか!how to be」なのであって、
 「如何に為すべきか!how to do」ではありません。

というくだりがあり、最近思っていたこととシンクロしました。


  20代の頃は、自分のスキルが上がっていくことに喜びを持ち、
  30代は社会に貢献できることが、仕事のやりがいでした。

  ここ最近は、誰かの役に立とうとか、
  困っている人をサポートをしたい、といった気持ちは
  どこかに思い上がりがあると感じるようになりました。

  正論を掲げていつの間にか周囲を説得しようとしていたり、
  結果がでなかったときに落胆したり、憤りを感じるのは、
  すでに心の状態が思い上がっているからで、

  私ごときがひと様の役に立とうするよりも、
  ただ在るに意識をフォーカスすることが大切だと
  思うようになりました。

  それは自分を卑下することではなく、
  また身勝手に自分の人生を楽しむことでもなく、
  真の自由(あるがままで在ること)は
  責任と気配りがともなうものと理解したうえで、
  
  「足るを知り」、見返りや賞賛を期待せず、
  ただ「無心」であればいいとう気持ちです。

  そうした状態で出会う人たちや出来事、活動が、
  真の友人だったり、本当のはたらきなのかもしれません。


  こんなことをわざわざ書いている時点で
  ぜんぜん無心じゃない気もしますが、  
  自分を犠牲にしないで、他者にも寛容でいられるよう、
  日々の中で学んでいきたいと思います。


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